別人格との暮らし方
誰もいないだだっ広い水色の一人部屋は、小さな彼女にとって、孤独感を演出し、増長させるだけの無意味なものでしかなかった。ふかふかなベッドも、女の子の間で流行の着せ替え人形も、抱き枕にも出来そうな大きさのぬいぐるみも。みんなみんな、彼女の部屋を空間的に埋めるだけで、心の空虚は埋めてくれなかった。
彼女以外に誰もいない家。
両親は、お仕事中だ。
……お父さんもお母さんも、二人ともお医者さんで、えらくて忙しいから、あなたに構って上げられる時間が少ないのよ。分かってあげて。
いつしか実家に置いてけぼりにされた時に、泣きじゃくる彼女に祖母がかけたなぐさめの言葉だ。
そんなことは彼女にも分かっていた。ただ、この寂しさは理屈でやり込められるほど単純な感情ではなかった。
彼女の右手に、握りこぶしよりもひとまわり大きい鳥のようなぬいぐるみが転がっていた。そっと頭に軽く手をやると、挨拶やら日常会話やら当たり障りのない言葉を喋り始める。友達に持っていることをうらやましがられた、流行のおしゃべり人形だそうだ。
彼女はいやに苛立った。方向性を持たない言葉を聞くのが煩わしくなって、掴んでそのままベッドの向こうへ放り投げてしまった。
本当に欲しいものは、こんなものじゃない。
お金のかかる物は、何も欲しがらないから。
ただ、私を一人にしないで。
誕生日やクリスマスにプレゼントをもらうたびに、彼女は誰にも当てつけられない左胸の叫びを外に放てずに、内側で人知れず響かせていた。
そして、今日も両親は帰ってこない。
ランドセルをベッド上に放ったまま、彼女は部屋の隅っこで沈むように座っていた。
いつしか、部屋の片隅で孤独に耐えるようにひざを抱えて両親の帰りを待つのが、彼女にとっても当たり前のことのようになっていた。日によっては、二人とも日付が変わっても仕事から帰ってこないこともあって……それは稀なことでも何でもなくて……、それでも彼女はひざを抱え続けた。
時計を見上げた。もうすぐ時計仕掛けの鳩が十一回鳴く頃だ。
ふと、無気力だった彼女が耳を澄ませた。玄関の扉が開いた時の、気圧が変化するような感じがしたからだ。
やがて、遅れて扉が閉まる音がする。
彼女はわたわたと焦って立ちあがり、玄関へと跳ねるように向かった。
「おかえりっ」
彼女が待ち望んでいたのは、自分を喜んで迎えてくれる親の笑顔だった。
玄関まで迎えに行けば、帰りを待ち続けていた娘の顔を見て笑顔をこぼしてくれるだろうと思っていた。
だが、実際に彼女が迎えたのは、仕事帰りで心底疲れ切った母親の、やつれた顔だった。
「ただいま」
母親は彼女に一言だけかけて、今のソファに直行した。
たったそれだけ。
彼女は呆然として、数秒前まで母親の顔があった宙を見つめていたが、すぐに母親の後にくっつくようについていった。
母親は軽い化粧落としの洗顔をしただけで、来ていた洋服はそのまんまにソファに寝そべっていた。寝そべっていたと思ったら、次の瞬間には、もう寝息を立てて寝てしまっていた。
そんな母親の側で、彼女はどうしようもなく突っ立っていた。
彼女はおそるおそる、母親の体を揺さぶって起こしてみようとした。何度も何度も、強くやっても、拒絶を示すのたぬき寝入りが返ってくるだけだ。
「お母さん、お母さん」
無反応。
「お母さんったら」
無反応。
「……」
彼女はあきらめて肩を落とす。
孤独感が付きまとっていた彼女だが、彼女自身特別友達が少ないわけではなかった。彼女が求め続けてきたのは、心の許せる話し相手とかではなく、単に愛情だったのだろう。
そう言う意味で、幼き頃の彼女が満たされることは、なかった。
大体この頃だった。彼女の記憶の中では。
彼女の頭の中に、”逃げ道”が造り上げられていったのは。
***
「……ふぁ?」
無防備で気の抜けた声を漏らして、岸本菜乃香(きしもと なのか)は意識を取り戻す。今度は、自分の仕事部屋だ。過去から現在へ、菜乃香の中で一瞬にして変転したシーンに、彼女はすぐにはついてこられずに目をぱちくりさせる。
菜乃香の座るロッキングチェアから、規則的で優しい音色が鳴っている。菜乃香は、意識が途切れる前も同じようにこの音が聞こえていたのを思い出す。ロッキングチェアをきいこきいこ鳴らしながら、ぼんやりと直前の行動の記憶を辿る。
何してたっけな。
……。
…………。
……あぁ!
「〆切っ!」
悲鳴とともに菜乃香は大きく飛び上がった。
「原稿書かなきゃ!」
その言葉がスローガンであるかのように繰り返し言う。菜乃香は卓上に放置されたノートパソコンに、飛びかかるかのように向かった。
マウスを叩くと、ため息にも似た排気音を伴ってスリープが解かれる。ディスプレイ上には、開きっぱなしのテキストエディタに、未完成の脚本。菜乃香はキーボードの上に手を置き、深呼吸を一つ入れると、再び物語を継ぎ足し始めた。
***
電車の高い位置にある方の吊り輪に背伸びしてでも届かないし、胸も発展途上と言える大きさのまま成長が止まってしまっているが、これでも菜乃香は現役の大学生だ。ぴかぴかの一年生、田舎(とは言っても関東圏だけど)から上京したてで新鮮味溢れる一人暮らしを送っている。
明日帰り遅くなるから、とほとんど変わらない語り口で、上京してみたいからするねと両親に話した時は、当然のごとく猛反発を買った。元々二人は自分にも他人にも……勿論娘である菜乃香にも厳しい人だったので、この反発は予想していた。
だから菜乃香は卑屈に言ってやった。
……今だって、私、一人暮らしのようなものじゃない。
両親は、ともに医者をしている。その職業柄から家にいることは稀で、菜乃香はいっつも一人で過ごしていた。
だからこそ、両親は言い返せなかった。
それでも二人の説得に大きく手間取ったのは、菜乃香のことが本当に心配だったのだろう。
いや。
正確に言うと、二人が心配していたのは菜乃香ではなく、あの子に対してだろう。
その子は、菜乃香にとっても唯一の不安要素でもあった。
***
菜乃香の筆が止まる。この場合正確には、手先が止まる、であるが。
「ここの台詞、どうにも違和感が拭えないんだなぁ……」
菜乃香が気にかけているのは、屋上での、主人公の男が今にも自殺しようとしている見知らぬ女性を説得して助ける、と言うシーンだ。とある謎の男に、ある自殺願望持ちの女性を救わなければお前が死ぬ、と宣告を受けた主人公が女性を絶望の淵から救う、というストーリーであるのだが。
物語も佳境、主人公が女性を救うという肝心なシーンに、リアリティが見出せずにいたのだ。
「今のご時世、「死ぬな生きろ」の一言で自殺踏みとどまる、どこまでも幸せな人間いないもんなぁ」
かといって、他に主人公に言わせるべき台詞が見つからない。
菜乃香はディスプレイとにらめっこを始める。
こうなったら、主人公に哲学やら人生論やらでも語らせようかと菜乃香は考えた。「自分の命を絶つことは〜」とか、「自殺は輪廻転生から脱することになり〜」とか。しかしそんな展開にしてしまうと、主設定が”落ちこぼれの青年”である主人公の人物像の破綻もいいところだ。第一、菜乃香に哲学や人生論を扱うだけの知識がない。
こういう時、いつもなら思い切って前半部分をばっさり切って書き直したり、哲学書を初めとした資料を集めてその場を凌いだりしてきた。だが、それは時間がまだたっぷりある場合の話だ。
「あぁ、もう!」
〆切直前だというのに、ここに来てアイディアが浮かばない。菜乃香の焦りに、苛立ちが徐々に上乗せされていった。
ちなみに菜乃香、これまで原稿という原稿を間に合わせたことがない。初めの一歩、とどめの一歩、どちらを踏み出すのも苦手なのだ。毎回、と言うわけではないが、大体は〆切直前の推敲で台詞をこねくり回しすぎて、整形に失敗したかのように取り返しがつかなくなって断念というパターンに終わる。つまり、今菜乃香は原稿破棄王道パターンに踏み入れたところなのだ。
ふと、菜乃香の動きが唐突にぴたりと止まる。
それは先程までの挙動とは違い、より反射的で、より完璧に硬直していた。
菜乃香とその子は長いつきあいであるが、菜乃香はその子が現れるのに法則性が見出せなかった。前に”現れた”時から一日たたずに出てくる時もあれば、一ヶ月以上音沙汰無い時もある。要は、その子の気分次第なのだろう。
それでも、その子が表に出んとする直前、出現の前兆らしきものはどうにか経験で感じることが出来た。
つまり、菜乃香の今の硬直状態。
これがその子の現れる前兆だった。
「……何もこんな忙しい時に来なくても。もう」
そうは言っても、菜乃香側からは手の打ちようがない。前兆が出てしまった以上、その子が出てくるのを抑えることは出来ないのだ。
刹那、菜乃香の意識は飛んで、ゴム人形のようになって力無く横に倒れた。
仕事部屋の中は、パソコンの排気音だけが満ちていて、いつまで続くか分からない間を保ち続けている。
突然、跳ね上がるような機敏な動きで菜乃香が起きあがった。
『……』
無表情のままだった菜乃香の表情が、無垢な少女の笑みへと変わった。
その表情は菜乃香のものではなかった。
***
菜乃香が解離性同一性障害だと病院で正式に診断を下されたのは、割と最近のことだった。
興味範囲外の小難しい話はどうしても右から左へ通過してしまうので、よくは覚えていないのだが、要は二重人格ですよ、ということらしい。
特別驚くようなことはなかった。
何せ、別人格であるその子とは十年来の長いつきあいだ。菜乃香にとっての衝撃の事実には成り得ない。
病気だなんて、深刻な顔をした医者を真ん前にして言われても、全く実感が湧かない。これまで、それほど不自由なく過ごしてこられたのだから。
それに、二重人格と言うには、菜乃香のケースは普通より少しずれている気がする。
だって。
『お呼びですか〜、菜乃香ちゃん』
「……ムクイ。あんたねぇ、自分で進んで出てきたくせに」
二人は共存しているのだから。
記憶障害もなければ、横からの干渉も容易。副人格に主人格が飲み込まれる恐れもない……。一般的な二重人格との細かい相違点を挙げるとなると、きりがない。
ただの二重人格と大きく異なるのは、”互いに言葉を交わすことが出来る”点だろう。
『なにやってる所?』
「見ての通り、だよ」
菜乃香はあごでディスプレイを指す。ムクイは菜乃香の眼を通して、じっと見つめている。
『妄想の垂れ流し?』
「勝手な脳内変換はやめようね、ムクイ。そうじゃなくて、これはドラマの脚本なの」
『そんなお仕事してたっけ、菜乃香ちゃん』
菜乃香はゆっくりかぶりを振った。
「仕事じゃなくて、応募用なの、これは。○○社の新人賞の募集に合わせて脚本を書いてるの」
『へぇ〜。菜乃香ちゃんが脚本を。いがい〜。で、どんなお話なの?』
「えっとねぇ……。主人公はうだつの上がらない落ちこぼれの青年で、ある日青年に謎のメッセージが届けられるの。そのメッセージと重なるように同時に現れる謎の男がいて、青年に言うの。お前は生きている価値のない人間だ、って」
『うん。それで?』
菜乃香は一旦息づいてから、続ける。
「落ちこぼれの青年は謎の男に宣告されるの。今から二十四時間後にお前は死ぬ。と同時に、命題が言い渡されるの。”今から二十四時間後までに人の命を救えなかったら即死亡って」
『それって、天国に一番〜のパクり』
「それでね今、一話の最後のシーンなんだけど」
ムクイがものすごく何か言いたげにしているのを、気づいてはいるが無かったことにする。
「落ちこぼれの青年が、屋上から今にも飛び降りようっていう名前も知らない女性を救おう、ってところでの会話なんだけど。……どうにもしっくりこなくて行き詰まってるところ」
菜乃香は困ったように、髪の毛を手でくしゃりと掻き乱す。入れ替わったムクイは菜乃香の手癖を引き継ぎながら、無邪気でどこか意地悪げな笑みを浮かべた。
『へへ〜ん……』
「ちょ、ちょっと、何笑ってるの」
笑っているのはお前だろと、菜乃香のことを知らない他人が見たら思うことだろう。端から見たら菜乃香は、一人で笑って、一人で突っ込んでいるのだから。
『アタシが手伝ってあげよっか?』
「……はい? ムクイ、脚本書けるような、そんな知識持ってるの?」
『知識はないけど美的センスならあるから大丈夫、安心して〜』
「安心する前に、ムクイのその、根拠の見えない自信の源泉が知りたいな」
菜乃香の皮肉も無視して、ムクイは目を輝かせている。人の眼を勝手にキラキラさせて。
『よっし! そうと決まれば』
まだ何も決まっていないのだが。
菜乃香の中のムクイは迷走しかねない明後日の方向を見据えて立ち上がった。
『いざ、実演だぁ!』
「はぁ」
菜乃香は立ち上がっている自分の体を持てあますようにして、ため息をついた。
『それじゃ、行くよ』
「ムクイ、お願いだから一人で突っ走らないで」
プリントアウトした脚本を握りしめ、菜乃香もといムクイは畳部屋の真ん中で弁慶よろしく仁王立ちしている。何をそんなに気合い入れているのだろうか。
「で、何をするの?」
『実演だってば』
「はぁ」
『はぁ。じゃ、な・く・て〜。早く読むの。セリフ』
「はぁ」
『だから〜、菜乃香ちゃんが男の役やってってば!』
「……私が?」
『それでアタシが自殺しようとしている女性役』
ムクイはうれしそうににやける。もう既に何か目的を達成したかのような、そんな笑い方だ。
……全く、とんだおままごとだ。何も今やらなくてもいいってのに。だいたい、私のお手伝いしてくれるんじゃなかったのだろうか。自分がやりたいことをやっているだけにしか思えない。
「ていうか、実演してどうするのよ。単に遊んで欲しいだけなら、今ほんっっっっとうに忙しいから今度にしてよね」
『登場人物の気持ちになってみれば、セリフも浮かんでくるでしょ〜』
登場人物の気持ちになってみる、というのは理屈の上では有効な方法ではあるのだけど、ムクイの提案なだけに、菜乃香は不安を拭えなかった。単なるムクイとのおままごとになりかねない。
『よおしっ、じゃあシーン23行くよ〜、……っほい!』
ムクイの強引なノリに乗せられるまま、菜乃香は主人公の男を演じることになった。
***
23.
屋上。重い扉を押し開けると、今にも自殺しかねない女性の姿があった。
達也「おい、やめろ」
女性「来ないで! こんな人生、もう死んでやるんだから!」
達也「馬鹿な真似は止すんだ。……死んで何になるって言うんだ」
達也、女性にじりじりと近づく。
女性「来ないでって言ってるでしょ!! 本当に飛び降りるわよ!」
達也「何でそんなに死に急ぐんだ?」
女性「赤の他人のあなたなんかに理由を話しても私の気持ちが伝わるわけがないわ」
達也「……成る程」
達也、ため息をつきながら、足を止める。女性に向き直って、再び口を開く。
達也「そうやって自分の殻に閉じこもり、他人を遠のけることで、
人間関係に疲れ切っていたあなたは心の安定を得ようとした」
女性「……それがどうしたって言うの」
達也「だがそれは同時に相談相手までも失うことになって、
悩みをうち明けることが出来なくなってしまった」
女性「な……!」
達也「誰でもいいから、打ち明けてみなって。
今は死にたくてしょうがないかも知れないけれど、
生きてりゃそのうちいいこともあるだろうしさ」
達也が女性の元まで近づく。達也、手を差しのべる。
達也「さ、ほら」
女性、泣き崩れる。
***
……。
……ねぇ。
いつまで泣き崩れてればいいのかな?
『あ〜、もう菜乃香ちゃん! 邪魔しないでよ!!』
「え、わ、私?」
ムクイが流した分の涙をぬぐいながら、菜乃香は立ち上がる。
『せっかくアタシが迫真の演技してたところなのに〜』
「いや、だって、もう終わったものかと」
『監督のカットの合図があるまで、終わりなどな〜い!』
「監督って誰よ」
『ムクイ』
あぁ、そう。
声に出して答えるのも億劫に感じられた。
『てか、菜乃香ちゃん演技下手すぎ〜。真面目にやってよ〜』
菜乃香が黙り込んでいると、ムクイがまた難癖つけてきた。しかし、この点に関して反論は出来ない。
菜乃香は、やる気がある無い以前に日本有数とでも言えそうな程の天性の”大根”役者だった。菜乃香の演技力を見た友人曰く、「菜乃香の場合、台詞棒読み……とはちょっと違うな。適切な表現じゃない。棒だってよく調べれば小さな凹凸は見つかるはず。菜乃香の言う台詞には抑揚の欠けらもないから、棒でなくて精錬された鉄パイプにでも例えるべきだよ」。フォローする気も起きなかったようだ。
「演技の善し悪しが本質じゃないでしょこの場合……」
『だから〜、登場人物の気持ちになれないといいお話作れないでしょ』
「そうだけどさ……」
ムクイの言うことはもっともなのだけれど、ムクイの言うことだけに素直に聞く気がしない。最終的に必ず物事が悪い方向へ転がっていってしまう気がしてならない。それは菜乃香がひねくれすぎなのだろうか。
「ああっ、もうこんな時間!」
菜乃香が悲痛な声を上げる。最終防衛ラインはもうそこまで迫っていた。
「余計なことしちゃうから、もう」
『余計なことって誰のせい?』
「決まってるでしょ」
ここは、厳しく言ってやらないといけない。
「あのねぇ……ムクイがこういうことするのは私のためになろうと思ってのことだというのは、痛いほど分かるの。この体を共有している仲だもの、それぐらいは分かるよ。でもね。この先、一人で解決しなきゃならないことだってあるし、ムクイの力を借りていられない場合だってあるの。もっと言えば、ムクイのお節介が、私にとって邪魔でしかないことだってあるの。今回はムクイが私に何もしないことが、一番の協力だから、お願い、黙っててね」
『……』
ムクイは押し黙ると、速い足運びでベランダに向かった。ベランダに出て、上身を乗り出し見下ろすと、十階分の高度が、眼でも肌でも直に感じられる。
『ニュートンの第一法則の実験でもしよっか』
ムクイは菜乃香の体で片足を大きく持ち上げた。今すぐにでも地面が迫ってくるような恐怖を覚えた。
あぁ、夜風が気持ちいいやぁ……、って、おい。
「恐い恐いムクイやめてお願い〜! さっきのは冗談だからホント落ちる落ちるって!」
落ちよう落ちまい助けて助けない、と一連の掛け合いが続いた。恐怖を一人で独占したかのように脅える菜乃香の必死の抵抗が繰り返されてようやくムクイが飛び降り未遂をやめた。
「あんたねぇ……人の体だからって……」
本当にや(殺)りかねない、い(逝)きかねない立体感のある恐怖を浴び続けた。死の淵から帰ってきた菜乃香はすでに畳にへたり込んで肩で息をしていた。
『さっきのは冗談だよ〜菜乃香ちゃん』
どこがどう冗談だったのか菜乃香には分からない。
「あんたのは度が過ぎているんだって!」
『へっへ〜……』
ムクイはいつもの意地悪げな笑みを浮かべながら、ベランダに置いてけぼりになっている脚本のコピーを拾いに行った。
『菜乃香ちゃん、要はね』
ムクイには珍しい、ゆったりとささやきかけるような話し方に変わったのに、菜乃香は気づいた。
『この男の人に足りないのは、ズバリ、切実さなの』
「せつじ……つ?」
『そうそう』
菜乃香が詳しい説明を求める会話の間を作ったので、ムクイは続きを話し始めた。
『う〜んと……。例えば、菜乃香ちゃんが自殺志願者だとするね』
「ふんふん」
『動機は?』
「動機? 例えばで、かぁ」
『そう、例えばだよん』
菜乃香はうなりながら考え込む。
「……この世の全てに絶望した、とか」
『いいね〜、そんな感じ』
何が良いのか菜乃香には分からなかったが、ムクイに対してその点を問うことはしなかった。いくらムクイでも、ここまで来て考え無しでした、と言うオチは用意してないと考えたからだ。
『じゃあ〜、次にそれ前提にして、菜乃香の脚本にあるようなセリフ言われたらどう思う?』
菜乃香は自分の書き上げた脚本に目を通す。そこには、「死ぬな生きろ生きていればいいことがある」といった、ステレオタイプの台詞が並んでいた。
「とりあえず、死ぬのをためらうようなことは無い気がする」
『うん。じゃ〜それは何でだと思う?』
なんかムクイキャラ変わってきてるなこんな子だったっけこの子自身も二重人格のフシがあるな、などと考えていたら、質問を聞きそびれたので、菜乃香は適当に答えた。
「……切実じゃないから?」
『それもそうだけど』
あ、かすってるんだ。
『この世に絶望した人が、この世の一般論で正しいことを説かれて納得すると思う?』
「……おぉ」
なるほど。菜乃香は声に出さずに感嘆した。世界の理(ことわり)に意味を見出せなかった人に、新たに理を説教臭く説いても何かが変わるはずもないということか。
「まぁ、筋は通ってる、ね」
『むふふふ』
私の体でいやらしい笑い方をしないでくれと菜乃香は思ったが、口にしなかった。
「なんだか以外……ムクイの助言が役に立つことあるなんて」
『ちょっと、それだとアタシがいっつもおじゃまになってるみたいに聞こえるじゃん』
まったくもってその通りでございます。菜乃香はそれも口にしなかった。ムクイは口を尖らせる分かりやすい怒り方をしていた。
「でさ、そうすると、この台詞、どう直せばいいのかな?」
菜乃香が怒り終えたムクイに問う。
『そこでさっき、ベランダでの菜乃香ちゃんのセリフですよ』
「はぁ」
『切実に、強く願っておねだりするの』
菜乃香はベランダでのやりとりを思い出そうとしていた。しかし、必死に助かろうとしている自分や、今にも迫りかねない地面。そういった記憶の衝動の方が強すぎて、自分が何を言っていたかすっかり忘れてしまった。
そして、自らが吐いた言葉を思い出す前に、一つ肝心な疑問が思い浮かんだ。
「でもさ、私が必死だったのは、自分が下に落ちかねないからであって、自分の身に危険を伴わない落ちこぼれ男に私が言ったような台詞を吐かせるのは、おかしくない?」
『命、かかってるでしょ〜』
設定設定、とムクイが言うから菜乃香は自分の書いた設定を見直すと、気づいた。
「あ、そっか」
『そもそも女の人を助けようってなったのは、自称天使……じゃなくて謎の男が命題を主人公の男に与えたからでしょ。女の人助けなきゃ、自分も死んじゃうんだから、切実な問題っしょ〜』
なるほど。またまた菜乃香はムクイに感心させられた。
「で、私なんて言ってたっけ?」
『忘れたなら、もう一度実験すればいいでしょ』
「うそですごめんないさい覚えてます覚えてます」
恐怖の再現はもうゴメンだ。
***
結果として、原稿は無事に〆切を撃退し、間に合わせることに成功した。初の快挙に、菜乃香は家で一人祝杯をあげた。ついでに、お隣の料理好きの女の子にお裾分けしてもらった鮭の刺身をつまみにして平らげてしまう。満腹になると、襲いかかってくるような睡魔に襲われたので、抵抗することもなく睡眠に入る。
どこからか振動音が伝わってくる。携帯のバイブレーションだ。だが、それでレム睡眠に入る菜乃香は起こすことはなかった。
コールは五回で途切れ、留守番電話サービスに繋がった。女性の合成音声のようなアナウンスが終わると、男の声が聞こえた。
「……あー、うん。えっと、岸本さん、わかって、ますよね? 今日は大事な大事なゲネプロですからねー。本番直前の、演劇練習に、脚本担当のあなた、必要ですからねー。それではよろしくー」
男はそれだけ言い残すと、余韻残さずすぐに通話を切った。