満月の心得
満月の夜は、僕の時間だった。
束縛されたさまよえる魂の、唯一、自由を許された時間。
人を魅了し、狂わす満月。そんな白い月は闇夜の一部ををまん丸の型でくり抜いたかのように、くっきりと。
月の周りには、数えるには多すぎるほど無数の星。しかし、その全てのかがやきを集めたとしても、月の美しさにはかなわないと思う。
星々を亡くなった人の魂に喩える人がいる。ある意味で正しいのかな、と考えたことがある。満月の陰の力に縛られた、幾多のさまよえる魂。そんなことを考えながら仰ぎ見る夜空は、悲しみに満ちていた。
活動開始だ。
夜を首長くして待っていた夜行性の動物のように、僕は動き出す。都会よりは田舎に近い、この街では夜の人通りは少ない。誰かに見つかる可能性は考えずとも良いだろう。
出来るだけ遠くに行きたかった。出来るだけたくさん、この世を実感できる何かに触れたかった。出来るだけ僕の心に丸く、ぽっかりと空いた穴を何かで埋めたかった。満月でさえも、その大きな穴を埋めるには足りなかった。
さまよい歩きたどり着いた先は、駅前の屋外駐輪場だった。行動範囲を広げる手段がほしかった僕は、躊躇も無しに放置された自転車を物色し始めた。この時、誰かに遭遇したら、という恐怖心より、自由を求める心の強さの方が軽く上回っていた。
選び出す条件として、鍵のかかっていない、小さく股下の短い僕にも乗りこなせる、それでいて自転車としての機能をまだ保っている(要は壊れていない)自転車を探した。
ひとつ、僕にも乗れそうなカマキリ型のハンドルで紺色のボディの、どんな世代の人が乗っても違和感の無いような凡庸型と言える自転車を見つけたが、よく調べて見るとチェーンが切られていた。何かの金属の工具で切断された跡がある。手の込んだいたずらだ。誰が、何のために、と言う疑問は自ずと生まれる。しかし、僕はその答えを知っていた。
心を満たす術を知らない者が、他人の不幸を眺めることによって心を満たすために、だ。
くだらない。
そんな奴の全く無駄な行為のせいで、限られている僕の貴重な時間を無駄に費やしてしまった。数十分探して、ようやく条件に当てはまる自転車を見つけた。カラフルな柄の、小学生がよく乗っていそうなマウンテンバイクだった。ちょうど良い。好都合だ。これならどんなに遠く、険しい道でも行くことが出来る。時間の許す限り、満月が顔を出している限りは。
ゆっくりと力を込めてペダルを踏み込んだ。この世界を感じるために、僕は行く。
満月の下、川沿いの土手の上を、僕は自転車で駆けていく。醜い心を持った人間には決して追いつくことが出来ない風のように、颯爽と。
自分は風になり、風を感じることも出来る。この世界に触れることが出来る。うれしかった。涙が頬を伝わっていることに気がついた。唇までそれは伝った。涙は少ししょっぱかった。
どれだけの時間、ペダルをこぎ続けただろう。ずっと川沿いの土手を海のある方角へと進んでいっていた。川の急な流れは、いつの間にか下流特有のゆるやかな流れに変わっている。疲れは感じなかった。感じている暇もなかった。
僕は、不意にブレーキをひいた。反動で軽いからだが少し浮き上がった。
誰かいる。
こんな時間に? それも川岸に。しかも一人で。恋人同士だったら、二人だけで、夜空を見上げながら、無限に近い数の星を数えたりしながら、愛を語らうこともあるかも知れない。しかし、もう一度目をこらして確認したが、たしかに一人だ。まばゆい星空の下でたった一人、孤独を味わっているのか? 丑の刻がもう迫っている時間だというのに?
好奇心に駆られた。あの人の心に触れてみたい。
僕は自転車を止めて、転ばぬように慎重に土手の斜面を下った。
幸い、すぐ近くに大きな橋が架かっていて、道に並木を植えるような間隔で電灯が立っていた。その明かりを分けてもらうことによって、ある程度近づいたところで、人影は少女の後ろ姿に変わった。
肩に掛かるか掛からないかの、さらりとした黒髪。ただの黒色なはずなのに、その髪の色は、果てなく広がる銀河のように美しく、人の心を魅惑する。
もう少し、逸る気持ちを抑え込みながら一歩一歩近づく。その忍び足は、番犬の横をおそるおそる通り抜ける時のように静かなものだった。
少女のうなじが見える位置まで近づいた。すらりと長い首、それの描く曲線は、うなじ美人と呼ぶにふさわしかった。
もういいだろう。美人の条件はそろった。顔は見ずともわかる。そう断言できるほど少女の後ろ姿は魅力的だった。
あと数歩の距離まで近づいた。少女は僕に気づく気配を見せない。僕は、後ろから脅かしてやろうかと考えた。典型的ないたずら小僧の発想だ。
そんなくだらない思いにふけっている時だった。
少女が突如、すくりと立ち上がった。僕は驚き、後ろに飛び退いた。その刹那。
少女は川へ投身した。
その時僕が取った行動は、反射運動、無意識の運動だと言える。声にならない声を発する。地面を左足で強く蹴った感覚。少女に向かって一目散に跳んでいた。スローモーション。目の前の光景も、自分も。この世を支配する全ての物理現象の速度が極端に遅くなった。
ドサァッ。
胴体を強く地面にたたきつけた。地面のとぎれる、ぎりぎりのところで少女の右腕をつかんだ。自由落下に逆らった、その反動で少女のからだが大きく揺れた。
僕は飛び込んだ時の勢いを止められず、ずるずると引きずられ川に落ちそうになった。足の爪先を立てて踏ん張り、左手で地面のとぎれた縁をつかんだ。
「だ、大丈夫?」
少女はまん丸の目をこちらに向けた。予想通りの美人顔だった。
少女の優しそうな唇が開く。これも予想通りで、かわいらしい声だった。
ただ、少女の口から発せられたその言葉に、僕は呆気にとられた。
「こんな所で、何をやっているの?」
こっちが聞きたいところだ。
小さな二人、ただし、恋人同士ではなく、さまよえる魂と謎の少女が、川の方を向き、二人腰を並べて座っていた。交わし合う会話は、無論恋話ではなかった。
少女は口にしたのは心の痛む告白だった。
「え……病気、なの?」
言葉を選ぶ余裕がないほど、動揺した。僕は頭に浮かんだ科白は、そのまま加工を受けずに口から漏れ出でる状態になっていた。
「それも精神病だなんて、嘘だったら早めに言ってくれないと……」
「そう。私、ちょっと頭普通の人と比べてヘンなみたいなんだ。医者に言われる前から自分でも気づいていたけどさ」
少女の言葉が、かき消すように僕の言葉の上に重なった。
僕は少女の顔を覗き込む。それに気づかないのか、少女は視点は満月を見上げたまま。
少女はさらに続ける。
「突然、自分でも意味のわからない言葉を発したり、誰とかまわず道行く見知らぬ人に話しかけたり、こんな風に満月の夜には夜中に徘徊したり。誰から見ても立派な精神病患者だって」
「そんな……誰がそんなことを」
少女は手頃な石を拾って、川へ放り込んだ。ポチャン、と音をたてて闇の中へ沈んでいった。
「みんなだよ。医者、クラスメイト、それに両親だって」
少女はもう一度石を投げ込んだ。石は水を切って、二回跳ねてから川に沈んだ。その回数に関係なく、何か物悲しい音だった。
「でも、今実際に僕と普通に会話しているじゃないか。君は普通の女の子だ」
「それが問題なんだよねー」
「……え?」
「正気があるとさ、自分の狂気が怖いんだよ。正気のうちは、自分が狂気に飲まれるのが怖い。狂気のうちは、正気に戻るのが怖いんだ。自分が変わり果てていくのを、ただ何も出来ずにじっと待つだけだよ。それぐらいならいっそ、ずっと狂気にずっと飲まれている方がましなんだよ、私にとって」
少女の口調は変わらない。淡々と、しかし、僕の第一印象を崩さないかわいい話し方。けれど、その声の奥に潜む、少女の苦悩がだんだんと言葉ににじみ出てきている、そんな気がした。
「だから、さっき死のうとしたのはホントだよ。楽になりたかった。ただそれだけ。正気からも狂気からも解放されるんだ。こんな幸せなことが他にあるかい?」
死ぬ?自殺。死が幸せ?狂気からの解放。
『シアワセノタメニ?』
胸が焼け付く熱さ。
『カイホウサレタイガタメニ?』
爪が皮膚に食い込むほどに握られる拳。
苦しい。息が乱れてきた。
『……チガウ。』
『ボクノタマシイハソクバクサレタママダ。』
「……違うよ」
「何が?」
「死ぬことで幸せになんかなれやしない。苦しみから解放されたりしない。死んだりしたらこんなすばらしい世界にたくさんふれることなんか出来ない。死んだりしたら魂は永遠に束縛されたままになる。死で得られるものなんて無い。何もかもを喪失するだけだ。だから……」
僕は無意識のうちに立ち上がっていた。そして、先も感じた、頬を冷たい液体が伝う感覚。
僕は泣いていた。そう、自覚した後も涙が止まらなかった。
ぐいっ、と少女に腕を取られた。肌が触れる。少女は僕に抱きついてきていた。
「ありがとね」
人間のぬくもり。決して二度と感じることのないと思っていた『あたたかさ』だった。
もう、行かなければならない。僕は自転車にまたがり、ハンドルを強く握りしめこぎ出そうとした。僕は最後に、少女の顔を見つめた。
「もし、もしね」
少女の声。その声には、もう苦しみは含まれていない。
「もし、もう一度私が満月の夜に川に飛び込んで死のうとしたら……」
僕は自転車ごと身体を少女に向け直した。
「その時は僕がもう一度お説教しに来るよ」
空を見上げる。満月がきれいだ。
満月の夜は、僕たちの時間だった。