誰かさんとパンドラの箱
『……B棚担当者、司書係イワン。夕食の時間です。即刻最下層まで受け取りに来なさい』
ランプ明かりのみの薄暗い建物の中。館内放送を通した機械的なその声は、極端に縦長で独特な構造をした建物内で、三重にも四重にも重複してイワンの耳に届く。
もう、そんな時間か。二十代初めの頃にここに連れてこられて、もう十年近く。十年も日の当たらない暮らしを続けていると、健康に害を及ぼすばかりでなく、体内時計にも悪影響を与えるようだ。一日が二十四時間? そんなこと、どこのお偉いさんが決めたんだか。太陽光に晒されることのない俺の時計は今でも正確に、二十五時間周期を刻み続けているというのに。
ゴンドラ……外観は、宙に浮く鉄の牢としか例えようがないほど、無骨な構造……の手すりに取り付けられた、錆色に染まった銅製のハンドルを手にする。ガランコロン、と子どもをあやかす玩具のような小気味よい音が、イワンの乗るゴンドラの振動音と折り重なって聞こえてくる。
地下部から吹き上げてくる風に、イワンの茶色い前髪がなびく。灰色の作業着に空気が入り、ふくらんでいる。建物内に吹く風だというのに、山岳地帯を暴れまわる風のように、自然に近い強さを持つ風だった。建物の構造上の問題だろう。
この高さから、最下層は肉眼では見えない。見えないのは、やはり怖い。図書館独特の薄暗さのせいもあるのだろう。経験上から言って、最も下の層から上の層まで移動すると酸素が薄まるのが普通の感覚で分かるほど、それほどの高度を吹き抜けで作られているこの建物は、特別・唯一・世界の中心という言葉がやはりふさわしいようだ。
三分ぐらい、休まずハンドルを回す。最下層の床も、仄暗い湖の底だったのが、雲上の高山から一望して見える平地ぐらいにはうっすらと、ぼんやりと確認出来るほどになった。今は大体、真ん中ぐらいの高度に位置しているだろうか? 来館者の視点から見ると、地上一階というとこだ。うん、どうやらそのようだ。一ヶ月前ぐらいに中層の位置を示す目印として覚えた、「未来からの贈り物」というシリーズ化している物語の本が見つかった。子ども向けの作品で、自ら読んだことはない。けれど、背表紙が銀色にきらめいていて、三十巻という巻数の多さから、目印としては最適だったので、勝手に「地上一階の等高線」として活用させてもらっている。
放送で呼び出されてから、くるくる右手を回し続けて約十分。ようやく最下層に辿り着いた。食事を運びに来た人物を見て、イワンは思わず息を呑み、驚愕と感動がうまく共存した表情をとった。
「館長!」
普段、私たち司書係に食事を運び込んできてくれるのは、安い給料で雇われたお手伝いさんだけだ。館長自らが来られるようなことなど、まず無かった。何か、今日は特別な日なのだろうか?
喜びのあまり、イワンはゴンドラが地上に完全に降り立つ前にそこから飛び降りた。レンガの床と革靴がはじけ合う。膝をうまく使って着地し、そのまま館長の元へ駆けだしてしまっていた。それでも館長は怒鳴りつけることなく、頭髪とともに白く染まった眉を歪ませ、顰め面をするだけだ。
「館長、お忙しい中、わざわざ私のために食事を届けに来ていただき、誠に……」
感謝の思いをつらつらと並べている最中だった。イワンの表情を軽く一瞥しただけで、その顰め面を変えることなく、食事だけ床に残してくるりと振り返ってしまった。
「か、館長?」
「私は、おまえが仕事を休むことなくこなしているか監視しに来たまでだ。礼を言われる筋合いはない」
そういって、館長は薄暗い闇の中へと飲み込まれていった。イワンの元に残されたのは、すっかり冷めてまずくなっている夕食と、氷よりも鋭く冷たい館長の言葉だけだった。
ガランコロン。心臓の鼓動よりも聞き慣れた音が、今日もまたゴンドラを介して耳を通る。一種の催眠だろうか、知らぬ間にこの音無しでは生きていけない身体になっていたりするかもしれない。
単純な曲線の組み合わせでは表せることが出来ない、背表紙のつくり出すうねりの壁と対峙する毎日。大空を仰ごうとも、大地の底を拝もうとも、イワンの視界を占めるのは本の敷きつめられたフィールド。天界まで貫き見通せるような青空は、イワンが今、休暇よりも強く望むもの。
登録番号、Bー12599ーKF4……。これだ。本と言うより、黒く分厚い重箱のようでもある。専門的な用語が濫用されているようだが、中を見開いても、何の専門書だかさっぱりわからない。まぁ、凡人に容易く理解出来てしまう専門書などあるはずがないが。
イワンは、仕事用具一式が詰め込まれた革袋から布きれをシートカバー取り出した。それを慣れた手つきで埃を払い落とす。色が色だけに汚れが目立つが、いつもより一、二回多くふき取っただけで、専門書を指定のシートカバーで本を、今度は丁寧に包む。ラッピングが目的ではない。本の破損の防止のためだ。
イワンは先ほどまで握っていたハンドルと違う、もう一方のひとまわり小さな、やはり錆色のハンドルを回す。すると今度は右横にガランコロンとゴンドラは動き出した。水平方向移動用のハンドルだ。
通気口ほどの大きさの口を開けて待つ『シップホール』に、イワンは専門書を投げ入れた。この『シップホール』は、いわゆる配達口。投げ入れれば、後はゆるやかなスロープを下り、最下層に位置する配達課まで、引力が勝手に運んでくれるというわけだ。
イワンの仕事……司書係のこなすべき任務。それは、何億冊とも十億冊を越えるとも言われる本の海から、発注された本をゴンドラに乗って取りに行き、『シップホール』に放り込む。そして、返却回収された本の、棚入れの仕事。それは単純でしかし、それゆえに十分重労働といえる仕事だ。
司書係の仕事には、毎日のノルマが設定されている。イワンが例え十二時間飯も食わずに働いたところで、ノルマにギリギリ届くか届かないか。それを毎日繰り返せと言うのだから、過酷な労働と言うべきだろう。
なぜ、「たかが」図書館の職員が、ここまで重労働を強いられなければいけないのか。答えは、実に単純。「たかが」ではないから。
中央図書館と呼ばれるこの図書館には、世界中のありとあらゆる本が、紙切れ一枚残さずかき集められたから。
『中央管理局。つまるところ政府は、世間に氾濫する、世の秩序を乱すような悪本への対応策に追われていた。人の殺し方が事細やかに書いてある本を読んだ少年は、三桁にのぼる罪もない人々を自らの手で死に追いやったし、元連続猟奇殺人犯が「犯罪者に捧ぐ新・解体新書」とかバカふざけた本を出版したかと思ったら、次々にそいつへの狂気的な信仰を持った模倣犯が世界的規模で出没して世の中は恐怖の底に、なんてこともあった。……まあ、この話はおまえさんがブタ箱内で過ごしていた頃の事件だから、知らないだろうけどな。
とにかく、反政府団体という媒介を伝い、この世の悪本を全て排除しろという意見が、世間に瞬く間に広がった。政府は焦ったさ。頭のゆるゆるな政治家になんか、全ての混沌が丸く収まってくれるような打開案など出せるはずがないからな。そこに、一人の政治論者の端くれがいつものように意見を出した。「この世の全ての書物を、中央管理局で支配してしまえばいい」、とね。知っての通り、政治論者には脳みそががとうにぶっ飛んでしまったんじゃないかと疑われかねない、ろくな意見しか出せないクズしかいない。
しかし、だ。あろうことか、それに政府は乗った。溺れる者、藁をも掴むというやつだ。確定した複雑骨折より、自分たちが助かる可能性を僅かにでも含んだ天変地異を選んだんだよ。あとは国会の密室内でとんとん拍子に法案成立だ。行き着く先がどこか、途中で沈没してしまわないかさえもわからない、泥船とも言えなくもない案がね。』
同じ司書係のそいつの話だと、それはちょうど十二年前の出来事。それから二年間という短期間にこの巨大な建物が造られたというのだから、それはそれは大がかりな工事だったのだろう。司書係の配備、貸し出し許可書の配布、棚ごとに本の分類別配置。十年間の間に、泥船なりに矛盾をかき消したシステムは出来上がりつつあるようだ。
イワンとこの図書館の巡り合わせは、或いは奇跡と呼んでいいのかも知れない。
中央図書館の完成記念日。その日は、イワンの刑務所からの出所日でもあり、行き場の無き自分を館長に拾ってもらった日でもあった。
朝の冷え込みの激しい、ある日のこと。
イワンは奇妙な本を見つけた。
そいつは、日常というゆるやかな流れに身を委ねてきたかのように自然に存在し、浜辺に流れ着いたかのように、音もなく、前触れもなくイワンの前に姿を現した。
ガランコロン。日常を音で表す。もう、いいかげん聞き飽きた。ゴンドラに効果音省略機能とか付けてくれないだろうか。
今日もまた、無限ループは始点に戻り、機械的な一日が過ぎていく……。
はずだった。
Bー11096ーGD4……。あった、これだ。分厚い本で引き抜きにくい。イワンは、左手の三本指も背表紙の下部に添えて、力ずくで引き抜いた。
すると、引き抜いた本の側面に磁力で吸着していたかのように、ひとつの本が一緒についてきた。どさり、とゴンドラの床に落ちる。軽い振動が伝わってきて、身震いをした。……それはまた違う意味での身震い、だったのかもしれないが。
ちょうど真ん中ぐらいページが開いたまま、床に伏せるように落ちている本。イワンは本来引き抜くつもりだった分厚い本を右手に握ったまま、その一緒に飛び出してきた本に目をやった。
背表紙、裏表紙ともに黒が基調で、その上に淡くきれいな空色で鳥……デザインはまるで碧の不死鳥のようだ……が描かれている。タイトルは「蒼天の不死鳥」。十代二十代ぐらい向けの小説のようだ。
中身を確認しようと、軽く膝を折って本を拾い上げる。と、本体の触感だけを置き去りにして、するりと中身が抜け落ちた。蝶の脱皮のように。イワンの手に残るのは不死鳥のデザインが描かれた本のカバー。
脱皮が終わった本は、新しいタイトルを提示していた。
『Diary 〜○○二十三年〜』
「日記……? なんでこんなところに」
イワンは無意識のうちに、率直な感想を口からこぼした。
食事運びのお手伝いさんの話によると、今年は確か○○五十三年。となると、普通に考えて三十年前の日記か。
イワンは右手の分厚い本を不死鳥のカバーを床に置き、その日記を手に取った。ページをめくると、その日記の奇妙さにすぐ気が付いた。
『○○五十三年、十一月十二日。晴れ。今日もまた……』
日付が、今からちょうど一ヶ月前だ。
イワンは両手を慌てさせて、もう一度表紙に目を戻した。○○二十三年。どうやら、見間違いではないようだ。日記が一体、このタイムラグは何だ?
三十年前に買った日記を今年になってつけた? いや違う。この日記、モノも古いが字体も古い。最近書かれたものではない。じゃあ、夢日記でも付けたのだろうか? この日記は、字体と内容からして、女性の書いたものだ。夢見がちの女の子が、ここに書かれているようなわりと現実的な夢を書き留めるはずもない。しかし、全く違うというわけでも無さそうだ。
『彼の都合が良かったので、今日はドライブに出かけました。空を飛ぶ車でツーリングなんて、ホント最高! 風が気持ちよかったぁ。そのあとは、セントラルパーク・タワーの屋上レストランで、お食事を楽しんだの。景色がとにかく綺麗だった……』
車が空を走る? 今、車はまだまだ地べたを走る時代だ。ついでに付け加えさせてもらうと、セントラルなんたらなんて建物も聞いたことがない。
つまり、この日記は、夢日記と言うほど空想的なことは書かれていない。けれども、現実には即していない。未来日記、と言うべきだろうか。
ただの未来日記なら、あのカバーのことは少々気になるが、何ら問題はない。イワンも初めはそうだった。しかし、読み進めていくうちに、気にするほどではないというその考えは徐々に変化していった。
『○○五十三年、十一月二十日。曇りのち晴れ。今日は待ちに待った彼との遊園地デート。ファンタジーランドはメジャーすぎるデートスポットだけど、そこで彼とのデートが出来るのは、この世界で私ただ一人。他の誰よりも負けない愛が、私たちを包み込んでくれるよね。さぁ、早く『ゴーストマウンテン』に乗ろうよ〜……』
読んでいるこっちが恥ずかしくなる内容なので、飛ばし飛ばしで読んでいるが、この日記を読む限り、毎日のように彼とのデートを楽しんでいる。空想とまでは言えないが、現実でもあり得ない。
もちろん、奇妙だと断言する理由はこれだけではない。
この純愛日記が、突然、ある日を境目に彼が登場しなくなるのだ。
『○○五十三年、十二月七日。雨。あいにくの雨。今日は、外にお散歩に行くのはよそう。』
この日の日記はこの一行分だけだった。六日まで続いていた純愛日記が、一ページをめくる間に味も素っ気もない一行日記に変貌してしまった。その理由を、誰もが「恋人に振られたりでもしたんだろう」と想像することだろう。しかし、日記というのはその日の思いをノートに書きつづるためのものだろう。だとしたら、どうして彼氏に振られた日が日記上に無く、何事もなかったかのように独りの日々が書き綴られているのだろうか。
『……B棚担当者、司書係イワン。昼食の時間です。即刻最下層まで受け取りに来なさい』
考えが、放送の声でぷっつり切断された。イワンは仕方なしというように、あきらめて日記を床に放り、鉛直移動の錆色ハンドルを握った。
食事を届けに来てくれたのは、やはり館長ではなかった。イワンは日記のことを誰かに話したい、その衝動を無理矢理丸めくるみ、心のポケットにしまい込んだ。
お手伝いさんが、帰りがてらにこんな事を言った。
「外はもう十二月、クリスマスなようですよ」
ガランコロン。イワンの右手には錆色ハンドル、左手には日記。この十年間、ただ仕事をサボるのでなく、仕事も平行させるその器用さだけはずば抜けてのびた気がする。
イワンは日記の続きをすでに読み始めている。
『○○五十三年、十二月十二日。曇りのち晴れ。なんてことない一日が今日も過ぎる。夕方、四十階の高さにある私の部屋の前を、暴走車両とそれを追う保安局の車が二度も通りすぎたこと以外、何も変わり映えのない日。』
未来への憧れだけは絶えていないようだ。
イワンはさらにページをめくる。その行為さえも、機械化したかのように、当たり前に。
『○○五十三年、十二月十六日。晴れ。疲れた。私の心はもう晴れることはないのだろうか。』
彼と別れた現実に、絶望を隠せないのだろうか……。いやしかし、なぜ彼女は未来日記の中でわざわざこんな内容を綴る? その疑念だけが、イワンの頭の中に最後まで居座った。
そして、日記の日付は二十五日。今からちょうど、三十年前となる。
『○○五十三年、十二月二十五日。雨。三十年間分、書き続けて、ようやく分かったよ。こんなことをしても、あなたは決してこの世に帰ってこない。未来は書き換えられない。あなたは思い出の中だけにしか存在しないの? 教えて。助けて。私の絶望をぬぐい去って。』
この本は、三十年目の未来日記だった。今は亡き、愛する彼を失い、絶望に打ちひしがれた彼女が、彼と共に過ごす仮想の未来を書きつづったということだった。
『誰も助けには来ない。世界で一番不幸な私を、みんなは見捨てた。彼はもういない。世界は、真っ白にしか、もう見えない。こんな希望のない、世界なら……』
二十五日付の日記は、そこで途切れていた。これで、彼女の三十年間にもわたる、未来日記は終止符を打った。
……あと、一ページ残っている。イワンは気づいた。めくろうとする手を、何かを察知した本能が止めようとする。
が、もう遅かった。
『こんナ世界、いッソのコとナクナッテシマエ……』
パンドラの箱は、開かれた。
その瞬間、床が一瞬にして抜け落ちた。いや、消えた。
宙に放られ、体を弄ばれるイワン。耳を、風のひゅうひゅうと言う音が通過する。
手足をじたばたしても、自由落下には逆らえない。そのまま、物理の摂理に従うがままに、イワンは水面へと墜落した。
何だ、これは?
深い水の底で、もがき苦しみながら、イワンは、おそらく当たり前の感想を漏らした。
混迷する脳内回路の中から、今すべき、優先順位の最も高いものを選び出す。
水面に上がる。このままだと、溺死だ。
イワンは手足のもがきを完全に止め、落ち着きを取り戻そうとした。穴という穴から水が流れ込んでくる状況で、平静を取り戻す。今すべき事。大丈夫、わかっている。
イワンは光差し込む水面上に向かって、ゆっくりと泳ぎ始めた。
水の世界から、顔だけ抜け出す。乱れた呼吸を整えようと、自分の耳にもうるさく聞こえるように息を荒げた。
息づかいが整ってくると、耳障りなほど完全な、辺りの静寂に気づいた。
上を仰ぐと、果てなく広がる紺碧の空に、圧迫感のある低空に浮かぶ雲。地上と呼べるような陸地はなく、海のように水面が水平線の彼方まで続いている。
ふと、自分の足元にくる感覚の異変に気づいた。
イワンは浅瀬に立ちつくしていた。
さっきの場所から移動なんかしていない。ただただ、水の底からはい上がってきただけだ。だが、足元を見ると、底が肉眼で見えるほどに浅い。これはいったい……
「おどろいたでしょ?」
イワンははっとして、表情を驚きの色に変貌させた。辺りを見回す。真後ろに、白いワンピースを着た女の子が佇んでいる。声の発信源。その目は、光をたたえることがない。血気の失われた彼女の唇がわずかに動く。
「わたしがだれだかわかる?」
「……日記の持ち主か」
自分でも驚くほど。イワンは、物わかりが早いと思った。
「よく、わかったね。ほめてあげる」
多分、イワンは司書係でSFやファンタジーの本に慣れ親しんでいたからであろう。こういう不測の事態は、イワンは常人よりかは近い位置に感じていた。
「あの日記は何だ」
正直、何から話せばいいか、全く分からない。この言葉も、ワンピースと同じぐらい白い肌の少女に、知らず知らずのうちに誘導され、導き出された結果出た言葉かも知れない。
「なにって。ただの未来日記だよ」
「そんなことを聞いているんじゃない。最後の一文、あれは何だ」
少女はくすくす笑いながら、
「呪いの一種かもね」
と、あざ笑うかのようにつぶやいた。
海のように、波立つことさえのない水面が広がる空間。二人が黙り込むと、再び静寂が広がる。イワンは丁寧に情報を整理して、質問の優先順位を決めていく。
「……ここはどこだ。日記の最後のページを開いたら、ここに辿り着いた。一体、どういう事だ」
「ここはね、わたしの『未来予想図』の実現した場所」
「未来予想図?」
「知らないの? 有名な楽曲じゃない」
それは知っている。三十年前のヒット曲だと言うことも。
「こころのなかに描かれた未来予想図が、現実に写しだされて、実現していくの」
少女は、両手でまあるいハートを左胸の前で作って見せた。その仕草は、妖しく、可愛らしく。
「でも、現実では実現しなかった。それは歌の世界だけでの話だ」
「ちがうよ。まだわかっていないんだ。もう、わたしの願いは、ここに実現しているの」
「ここに……?」
「そう。ここは、わたしが叶えた未来の世界。あなたがさっきまでいた世界が偽りなの」
頭を抱え込むイワン。こいつは、何を言っているんだ? ここが現実、あっちが虚構? それが嘘なのは、イワンの常識が訴えている。だが、今のイワンには、それを否定する確証がなかった。
イワンは足を踏み込み、少女の寸前まで瞬間移動したかのように、疾くに動いた。
利き手で胸ぐらをつかみ、イワン。
「おまえ、何がしたいんだ」
全ての怒りがこもった言葉だった。
「なにって。だから、世界を壊してしまいたかったの」
イワンはさらに拳に力を込めた。少女の首が絞まる。少女は、けほ、と空気を漏らすが、表情は決して変わることはなかった。
「彼のいない世界に、存在価値なんて……」
「おまえ、『他人』を思ったことがあるのか?」
「あるよ」
「でたらめを言うな。お前なんかに俺らの気持ちが分かるか」
「わかるよ。妻殺しのもと囚人さん」
イワンの右手から、握力が抜けた。少女は束縛から解放され、水面へと落とされる。
「なんだと……? なぜ知っている?」
「ここはわたしの世界だよ? なんでもわたしの思い通りにいくに決まっているじゃない」
少女の言葉は、出任せではなく、真実。イワンは今から約十年前、妻殺しの罪で刑務所に服役していた。
「あなたこそ、わたしの彼への想いがわかるとでもいうの? 愛するひとをいとも簡単に殺したあなたに」
イワンは黙り込んだ。次に出すべき言葉が見つからなかったから、ではない。怒りが喉の奥までこみ上げてくるのを、必死に押さえ込んでいたからだ。
「お前の愛は、愛じゃない。偽りだ」
怒鳴りあげたい気持ちを、小さく、丁寧に凝縮する。すると、耳を澄ませば聞こえる程度の小さな声でも、心には大きく響いて聞こえる。
「挫折を虚構で上塗りしただけのおまえに、愛というものが分かるわけがない」
妻が変わってしまったのは、結婚一年目の時。妻の両親が強盗に殺された時を境目に。悲惨な刺殺死体だった。七度も八度も、急所を刺されて。
「正しい答えなんて、出てこないものなんだよ。二人でお互いを分かち合い、ひとつの答えを導く。それが愛と言うんじゃないのか?」
妻はそれ以来、寝たきりになった。絶望に打ちひしがれる妻。やがて、言葉も失った。イワンは決心した。妻の想い。イワンの想い。ここで終わらせる。それが二人の導いた答えだった。
「私は妻を殺した。それが正しかったのかどうか、今でも答えを導き出せない。でも、私たちの愛は、確かにそこに存在しているんだ。今だって、そう」
イワンは左胸にそっと手を添えた。温かい、命の鼓動。妻をそこに感じる。
「いつまで後ろを向いている気だ? 前を向いて見せろ。今のまんまじゃ、いつまでたっても天国で待つ彼に会えたりなんかしない」
そこで初めて、少女は表情を変えた。
「不死鳥になって見せろよ。彼がいなくなったとしても、前だけを向いて歩んでいけるような、不屈の魂を持った不死鳥に」
蒼い不死鳥。空を見上げれば飛んでいるような気がして、見上げてみた。不死鳥はいなかった。そのかわりに、水色の空が広がっていた。
「……あなたは、不死鳥になれたとでもいうの」
「なったさ」
イワンは青空を仰いだ。雲が拡散されて、消えていく様子が肉眼でわかる。
「さっきはちょっと、水面に不時着したけど」
空間が、世界が、色を失っていく……。
ガランコロン。今日もまた、日常を伝える音。平和と安息を約束する音。
イワンの手元には、誰かさんの残した日記。