指さずにはいられない 上



 ……あっ。
 春先の偶然。春先の名物。
 鋭く吹く風が作りだした一瞬を、太一の右人差し指は見逃したりはしなかった。
 人差し指が指し示す先。そこには、前を歩く女子高生の、突風に踊らされ浮いたスカートのその中身……白、だった……がお見えになっていた。
 慌てて両手でスカートを押さえた女子高生が、くるりと振り返った。誰も今の瞬間を目撃していなかったという事実を救いとして期待していた彼女の視線の焦点が、太一の右手の指に絞られた。
 案の定、太一に弁解の余地は与えられなかった。顔を赤らめた彼女は、こちらの事情も知らずに「サイテー」の一言を残して足早に去っていった。
 足音の名残と彼女の一言だけが耳に残った。
 ……くそっ。
 自分ではない別の意志が宿ったかのような自分の右人差し指を、太一は呪った。



 教室に入り、机に座ってカバンから必要なものを取り出したら、視線を振り回さないことだけに専念してじっとする。全く友達がいないわけではないし、おはようとか話しかけられたら最低限の返事はちゃんと返す。ただ、厄介事に巻き込まれない安全な道を徹底的に選ぶことをいつしか心に決めていた太一は、自分から友達に話しかけることさえ避けるようになっていた。
 普通の人間には扱えないような特異な能力を持つ者を超能力者と定義するのならば、太一は超能力者と言えるし、特異な能力を”自在に扱える”者のことを超能力者と定義するなら、自分の意志で操ることの出来ない能力を持つ太一は、超能力者とは言えなかった。
 能力と言っても、SFやファンタジーで使い古されたテレポーテーションのような子供から大人まで夢を与える程大層なものでも実用的なものでもなければ、ユリゲラーのスプーン曲げみたいに見る者を視覚的にわかりやすく感動と衝撃を与えることも出来ない。太一が持つのは夢も実用性もない本当にささいな能力……小能力というべきものだった。
 さて、どんな能力かというと。

 ……あっ。
 過去の遺物。空飛ぶ球体。
 数学の沖野が板書をしている隙に見た外の景色。教室の窓から見えるいつもの街並みに、今は懐かしきアドバルーンがあった。赤と黄のスタンダードカラーだ。ここからは遠くて読めないが、バルーンの下に付いている広告には本日バーゲンセールとでも書いてあるのだろう。
 確かに広告・宣伝手段の発達した今日では物珍しいアドバルーンではあるが、指を指してまで驚く程のものではないだろうと太一は思う。
 それでも太一の人差し指は遠く宙に浮かぶそれを指していた。
 指さずにはいられなかった。
 自分の知らない何かを発見すると大きな興味を示すのは、いつの時代の子供も同じで、幼い頃の太一もそういった子供の一人だった。アレはなんだろう、アレすごいなと思うたびに指される指。好奇心旺盛な子供にとっては自然な行為だ。だから、目新しいもの、もしくは気に掛かったものに対して指を指さずにはいられないという、軽い冗談のような能力もとい体質が、太一の中で芽生えたのが何歳頃のことなのか解らなかった。
 いつからこうなってしまったのだろうか、そんな議論を展開するのはこの体質が染みついてしまったになってしまった今では全くの徒労だ。それより問題なのは、指を指す行為が自分の意志で全く制御できないということだ。
「大木太一」
 呼ばれたことにはすぐに気づき、慌てて顔を前に向けたが、太一の人差し指は未だ外を向いたままだった。当然、次の言葉が飛んでくる。
「お前はそんなに俺の授業が聞きたくないのですか」
 沖野はここぞとばかりに、並びの悪い黄ばんだ歯と偽りの前髪に隠された危なげな頭皮(これはいつも覘かせているわけだが)を覘かせながら嫌みを放つ。どういうわけか、太一に対してだけは沖野からの風当たりが強かった。
 どういうわけか……といってもどうしてもこうしてもないわけで……太一と沖野の関係が悪化してしまったのは、一年前に太一の人差し指がやらかした事件が原因なのは他の目には明らかだった。
 その日は入学式を終えた後初めての授業で、高校一発目の授業だった。それは、今年赴任してきた沖野も同じで、お互いにそれなりに緊張が高まっているはずだった。
 弱々しい顔に神妙な面もちで扉を開け、沖野が教室に入ってきた。軽い緊張の糸が教室内に張られる。今日の授業は、様子見態勢の生徒達に今後の勉強に対する姿勢を教え込むのにとても重要な授業となるはずだった。
 だが、太一の指が全て壊した。
 沖野の頭の上に不自然に乗せられた黒い物体に、指を指さずにはいられなかったのだ。
 まず、指を指した本人が、指より数コンマ遅れて気づく。次に、太一の指の先を確認した周りの生徒が、気づき出す。「ヅラだ」「ヅラだよね」という小声と失笑が波紋のように教室中に広がって、やがてヅラが気になるばかりで授業どころではなくなってしまったのだ。
 指を指した太一が沖野に呼び出されて注意を受けることもなかったが、代わりに授業中指される回数が増えたり、難しい問題の宿題は全部太一に回されたりといじめとも言えない嫌がらせを受け続けることになった。
 そして今は、よそ見をしていた罰として廊下に立たされている。
 ……今時廊下に立たせる高校教師なんかいるかっての。
 だが、そんなことを仮にも教師である相手に直訴できるほどの積極性と行動力を太一は持っていなかった。大体、非はこちら(の指)にあるのだ。甘んじて罰を受けるのが、結局は一番手っ取り早くて無難な解決方法であることを、もはや体で覚えるレベルで太一は心得ていた。
 超能力が必ずしも役に立つものではない。足かせになることだってある。……むしろ、足を引っ張るばかりだ。それは、今最も太一が誰にともなく言ってやりたいことだった。



「太一、とっとと帰ろうぜい」
 今日最後の授業のチャイムが鳴り終わる。その頃にはもうクラスメイトの佐々岡葵は帰り支度を済ませて太一の元に来ている。
 佐々岡は、太一と同じ帰宅部のエース。授業終了後速やかに荷物をまとめて教室を出る、洗礼されたそのスピードは、誰にも真似できないと評判だった。それが二年生へと進級し、太一と同じクラスになったら、葵は毎日のように太一を誘って帰ろうとし始めた。帰宅部の同志よ、などと言いながら。
 それまであまり友達を持たなかった太一は、誘われるがままに佐々岡と行く帰り道に、多少の居心地の悪さを感じた。しかしそれは佐々岡だから、女子だからというわけではなく、単に太一が友達と接することを得意としていなかったからだった。
 それに、指のこともあった。太一にとって、もはやこの指が何かの災厄を招くアンテナの役割をしている気がしてならないのだ。出来るだけ、周りの人を巻き込みたくない。

 放課後の部活動にいそしむ他の生徒を尻目に、二人は校門を出る。日も落ちていない、昼下がりのぽかぽか陽気が続く間に下校できるのは帰宅部の特権だった。
「高校生になっても部活頑張りなすって、ごくろうさん」
 佐々岡の言った台詞は、おおよそ校庭をランニング中のサッカー部の集団に向けられていた。トラックという決められた楕円上を逸れずに走る長蛇は、不自然で、遠くから見れば滑稽ささえも含んでいた。
「全くあの中に何人本気でサッカーがしたい奴がいるんだかな。どうせ大方の連中はみんなやってるからだの友達つくりたいだの女にもてたいだの、ろくな動機を持たずに部活してるんだろ? どいつもこいつも自分が本当にやりたいことさえも見つけられないで、学校や世間が用意したお手頃な青春に手を伸ばしている。有意義なもんか。それだったら志ある帰宅部に所属している方がいくらかマシだと思うだろ?」
「う、うん。そうだね」
 太一はとりあえず頷く。頷いてから、佐々岡の言ったことを理解する。太一がうんうんうなっている間に、佐々岡がふと思いだしたように付け足した。
「……まあでも私らのことを志のある奴とは世間は認めないだろうけどな」
 佐々岡は前を向くと、声を出して笑った。
 名前から受ける清楚なイメージに反して、佐々岡葵は男勝りでさばさばした性格をしている。素行は悪いが不良というわけではなく、自由人という表現がもっとも当てはまる。同じクラスで過ごした半月と、周りの噂レベルの評判が、太一にそう印象づけていた。
 遅刻と早退の常習犯として、教師側からは校則を守らぬ問題児として扱われていたが、同級生……特に一部の女子からは……にはむしろ好かれていた。己の定めた掟にだけ従って動く、飾らない一匹狼の姿がどこか魅力的に映ったのだろう。

 ゆっくりと流れる昼下がりの商店街を二人は抜けていく。商店街を歩いている間だけは、太一は世界がどこまでも平和なのだと思えた。平穏を欲する太一にとって、商店街の孤独すぎない静けさは最高に心地よいものだった。
「……私もさ。中学の頃、部活やってたんだよ」
 受け答える用意をしていなかったというだけで、佐々岡のつぶやきで太一は大きく驚いた。
「バスケ部だったんだ。別に小坊の頃からやってたりはしてなかったけど。じゃあ何でバスケ選んだかっていうと、当時はスタミナと瞬発力には自信あったからな。自慢になってわりぃけど、運動会じゃ短距離長距離リレーの選手、いつもトップだったからさ。ま、後は流れだ。運動部に所属していた方が後々”いろいろ”ためになるってんで入っただけだ」
 太一は割と深刻そうな顔をして頷く。相づち一つにも気を遣ってしまうのが太一だ。
「入ったはいいが、結構きつくてさ。部活としてな。私立の強豪校みたいに1から5まで練習練習なんて事はなくて、単に試合で勝ち進むことをちっとは考えて練習していたってだけなんだけど。それでも”遊び”でしかない部活が多い、他中学の部活崩れ同好会よりは、その意識あるだけで大分キビシイだろ?」
「まぁ、そうなのかなあ」
 運動部経験のない太一にはうまいこと想像が出来なかった。
「そんな練習が嫌だってんで、私と同期に入った部活仲間は何人かやめていったよ。やめたほとんどが中学から始めた未経験者で、残ったのは私ともう一人だけだった」
 チヅルって言うんだ。佐々岡は付け加える。そして宙のキャンパスを組み上げて記憶の断片を合成し、モンタージュを作成する。
「ちっさくて、とろくて、典型的なドジで。さらには頭の回転も遅くて、バスケの動きというのをいつまでたっても覚えられない。色白な外見からにしても、のたくり回るような試合中での動きにしても、バスケなんざ到底向いてないような奴だった。そんな人間が何でバスケなんか始めたのか、今になっても私にはちっっともわかんねぇんだ」
「すごい言われ様だねチヅルさんて人……」
 太一は率直に述べた。
 所詮は佐々岡の台詞を通してのイメージでしかないのだが、太一はチヅルさんと自分が何か近しいものがあると感じていた。マイペースで、のんびりとしていて、平和主義的なところがあって。こういう類の人間は、決まってある種の人間に嫌われるのだ。同じマイペースでも、てきぱきと急いで生きている、佐々岡のような人間にだ。
「嫌いだったよ、あいつのこと。悪いけど、見ているだけでイライラするんだ。かつては同じスタートラインに立ってた相手だからこそ、あいつの不器用さが解るんだ。何度言ったら解るんだ。何でそんなことも出来ないんだと、毎日ご挨拶のように必ず言われていた。私はいちいち苛立つのが嫌だったし、苛立っている自分も嫌だったからチヅルを敬遠しようと決めていた。それなのにだ、距離を置こうと態度を冷たく決めている私は、どうしてかチヅルになつかれていった。あれか、未経験者同士の親近感でもあったのか。でも、私の方はあいつに親近感を抱くことなんかちっとも無かった。だから、冷たくあしらった。なのに、それなのに何度強く突き放しても、飼い犬のように戻ってくるんだ。……迷惑な奴だったよ」
 迷惑だった、と佐々岡は口の中で反芻させた。
 太一は、すっかり落ち込んでしまっている自分に気が付いた。……何で自分が落ち込まなきゃいけないんだろう? おそらく、チヅルさんに自分を重ねすぎてしまったせいだ。
 とろい人間は嫌いだと、佐々岡は言う。……だとしたら何故佐々岡は僕から逃げ出さずにいるのだろう?

 高速道路が近くを通る十字路で、太一たちは別れる。太一は駅方面へ直進し、佐々岡は左に曲がる。佐々岡はこれからバイト先へと向かう。二人の高校は、バイト禁止だ。



 春から夏へ移行しようかという季節。学生達は年度初の中間試験を前にあわただしくなっていく。
「太一君〜、お願いがあるんだけど〜?」
「いいよ」
 マイペースだが、鈍感なわけではない(むしろこの指のせいもあってか洞察力は人並み以上に優れているようだ)。普段挨拶さえも交わさない名も知らぬ女子がこの時期になって話しかけてくる理由ぐらいはすぐに解る。
「ありがと〜。じゃ、英語と数学のノートコピーお願いするね」
 太一の高校では学年の成績上位者五十名を廊下に張り出すという、個人情報保護法案の成立でプライバシーに対する意識が高まっている社会に逆行するようなしきたりが未だ続いている。そのせいで、普段特別な用件がある者以外声を掛けられない太一が、この時期ちょっとした人気者になってしまう。
「口も利いたことのない奴の頼みをわざわざ引き受けることないんじゃないか?」
 椅子を直して振り返ると、そこには帰宅部のエースがいた。
「佐々岡」
「考えてもみろよ。いつもは”クラスメート”という肩書きがあるだけの赤の他人なのに必要になる時だけブツ目当てに集(たか)ってくる。給料日にだけ出勤してくる糞教師だか餌くれる人間にだけ群がってくる池の鯉と同レベルじゃねぇか。そういった奴に対して「ズルい」とか思ったりしないのか?」
「……そうは考えたこと、無いかも」
 利用されているという自覚がない太一にとっては、”ズルい”は真新しい発想でしかなかった。
「全く、どこまでも良心的な奴だな」
 太一はそれより、佐々岡の後ろ手が気になっていた。
「それは?」
「あぁ。これは……」
 ……あっ。
 世界史のノート。二年二組二十七番佐々岡葵。
「いや、あのさ、出席していた授業分のノートは取ってあるんだけど、それでも半分近く板書足りなくてさ」
 太一は長いため息をついた。

 いつものように、二人は最速の家路につく。試験前ということで、授業終了時間は通常より早く、正真正銘の昼下がりの街並みを行くことが出来る。太一は昼下がりの街並みの静けさが何よりも好きだった。
 太一は器用に意識の半分を静かな街に傾け、残りは佐々岡の話に耳を寄せることにする。佐々岡の話は、端的に言えば太一が全く介入しなくとも終わる、自己完結的な話が多いのだ。だから太一はいつも聞き役に回っている。
「外国の歴史や文化を学ぶために、海外にホームステイに行く日本人が一番に驚くのは、日本好きな外国人が日本人以上に日本の歴史に幅広く精通しているということらしいんだよ」
 電柱の上で世を見渡すカラスが、あぼっ、あぼっ、と何やら頭脳明晰で賢い動物とは思えない間抜けな声で鳴いている。おかげで太一の人差し指の注目は完全にカラスに持ってかれていたが、そんな太一を気にも留めずに佐々岡は続ける。
「留学生は外国人の知識の豊富さに驚くが、外国人からしたら自国の歴史に疎い日本人の方がよっぽどサプライズなんだそうだ。日本人は欧米の文化に中途半端にあこがれて、西洋かぶれとバカにされ、生まれた国の文化も軽視する一兎も得ずな人が多いと思うんだ。だから、世界史を学ぶ前に、自分の国の文化や歴史から知ることが大事だと」
「それが」
 もういいだろう、と太一は思い、佐々岡の話を切った。
「……それが、世界史のテスト勉強しなくていい理由になる?」
「う゛っ」
 図星ですと言わんばかりに分かりやすい反応をする。佐々岡は一体どこまで本気なのだろうか。太一には解らない。
 にゃあ。
 ……あっ。
 黒い毛並み。月色の瞳。
 黒猫が二人の前を横切った。人差し指が忙しい日になりそうだ。すなわち、不吉な予感。太一の悪い予感は嫌というほどよく当たるのだ。予感する、というよりは、気がつけば悪い事態が向こうから勝手に寄って来ているだけなのだが。
 そんな太一の心中を知ってか知らずか佐々岡が横目でちらと視線をよこした後、「黒猫もかわいそうだよな。くだらない迷信に嵌められて、毛の色だけで不幸の象徴にされるなんてさ。黒猫が目の前を横切るだけで不幸が訪れるなんて、そんな迷信、当たるわけ……」
 確かに、黒猫のその話は迷信に過ぎないと、太一も思っている。
 だけど、太一の悪い予感は迷信ではない。

 ふと、前を向いていた佐々岡が何か見てはいけないものでも目撃したかのような顔をしたので、その視線を辿ってみた。佐々岡が見た時にはその男は裏道から突然飛び出してきていて、太一が顔を向けた瞬間には男はうどん屋の店先に置かれていたバケツに躓いてすっころんでいた。
 太一は突然のことに目と口を半開きにしたまま動けなかった。男が強打したおでこを押さえながら立ち上がろうとするのをただ傍観していた。だが、こんな登場のされ方をしたんだ、次に太一が起こす反応は、必然に近かった。
 ……あっ。
 黒くすすこけたつなぎ。尋常でない焦りのにじみ出た顔。
 転んだ人間に指を指す。究極の揚げ足取り。
「お、おい、太一。指、ゆび!」
 指を下ろせないんだよと言ってやりたかったが、そうしたら話がややこしくなるし、今自分の能力のことを説明しきる自信はない。
 男は未だ手のひらで額を押さえながら、しかし顔を上げて鋭い眼で太一を捉えていた。
「ご、ごめんなさい」
 人様に指を向けたまま謝る。もはや相手を侮辱しているとしか取れなさそうだが、太一自身は必死だ。しかし、許されるわけにもいかないだろうと腹をくくった太一は、殴る蹴るの暴行を受けるのを覚悟して、相手の顔色を探った。
 太一の案じた通り、男の顔は穏やかではなく、強張っていた。だが……気のせいだろうか? 怒っているというよりは何かに脅える表情に近い気がしたのだ。太一の洞察眼はそう捉えた。
「お、おまえ……俺が誰が分かるのか……!」
 予想外の反応だった。単に怒っているわけではないことは分かったが、単に脅えているわけでもなさそうだ。男は身体に電流でも流されているかのようにわなわなと震え上がっている。
(知り合いか?)
(いや、違うよ。会ったこともない)
(じゃあ何だよあのおっさんのワケワケメな反応は)
(僕も聞きたいよ)
 耳打ちの応酬を終えた後、二人は同じ動きでゆっくりと顔を男に向けた。そして傍観に入る。初めの状態に戻ったわけだ。男の次の言葉を待つ。
 すると、ククク……と声を出して嗤いだした。
「こんな短時間でもう俺の顔が割れているとはな……。警察も無能じゃない、ってか」
 そう言って男はつなぎのポケットからナイフを取り出した。
 それまで男を襲っていたはずの震えが、今度は太一を襲った。背筋から首筋へ、表面を駆け抜けるように電撃が走った。
「ここで捕まるわけにはいかねぇんだよ」

 太一、逃げろ! と聞こえた。太一はすぐ側にあるはずのその声をどこか遠くに聞きながら、振り返り、逃げ出した。
 逃げだそうとした。指が、人差し指が男を指したまま振り返る身体について来られずに後ろに残っていた。不安定な体勢で走り出そうとした結果、バランス崩して太一は転んだ。右ひざをすりむいた。
 傷の程度を気にする間もなく、影が近づいてきた。
「直接手を下すのは俺の趣味じゃあないんだがな」
 銀色が残像となって太一に振り下ろされた。
 あきらめの一瞬。
 ナイフが空気を切る音だけが、妙に鮮明に耳に残った。

 一瞬を迎えた後、致命傷を負うはずだった太一は無傷だった。避けられないはずの一瞬に、佐々岡が間一髪で介入したのだ。
 がら空きだった男のボディに、捨て身のタックルを喰らわせる。人を殺す意志を持っていた男はその刹那、ただのサンドバックと化して後方へ大きく吹っ飛んだ。
 太一は事が済んだ後も、ただただ見とれていた。正確に言うと見とれていたのは佐々岡に、ではない。一瞬が、さらに一瞬の介入で大きく変えられたその運命に太一は魅了されてしまったのだ。
 ぼーっとする太一を呼び起こしたのは、佐々岡の多めの一往復半ビンタだった。
「何やってるんだ! 逃げるんだよっ」
 男が佐々岡に吹き飛ばされた時と変わらない勢いで、太一は腕を掴まれ体を持ってかれた。
 もしかしたら死んでいたかもしれない。でも、助かった。助けられた。……また、助けられてしまった。様々な実感が具現化していく。その一つ一つを噛みしめながら、佐々岡に手を引かれ太一は走った。





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