指さずにはいられない 下
佐々岡自身も夢中で走っていたようで、確かにあの危険な男を撒きはしたが、裏道小道横道と入り組んだ住宅街を走り回ったので、現在地はもちろん、男と遭遇した場所がどのあたりなのか、どの方角から逃げできたのかが全くわからないという。下手にまた動き出してその先でばったり男と遭遇、なんて事態は避けたいのでしばらく様子見の意味でも身を潜めることにする。
太一たちが今身を潜めているのは、五階建てマンションの地下ガレージだ。ガレージにはワゴン車が一台停まっている。その陰に隠れていれば、ここまで完全に見失わずに追われていない限り再び男に見つかることはないだろう。ガレージに面するは、閑静な住宅街を構築するマンションに挟まれた、四十メートルばかりの短い道路。両端の突き当たりもまたマンションで、道路が短く切れるすなわち曲がり角が多いと言うことは、ここらは住宅地迷路の深部と言えそうだ。風景として目につくのはゴミ集積所だけで、もう一度さっきの場所からここまで迷わず来いと言われても、それは無理な注文だなと太一は思った。
息を整えつつ、道路側に顔を出して追われていないか念のため確認する。人通りどころか、人の気配さえもない。変化がない場所を見張ってもしょうがないので、ガレージ奥にいる佐々岡の元に戻った。
佐々岡は太一なんかよりよほど早く平静を取り戻しているように見えた。一般に、不測の事態に冷静でいられるのは女性より男性だと言うが、この二人には性別に関する一般論は当てはまらなそうだ。
いつもよりおとなしめの佐々岡より先に、太一が口を開いた。
「右腕、どうしたの?」
太一が気にしたのは佐々岡が押さえていた右肘のあたりだ。
「あん? 何で?」
「痛そうにしてるから。さっき、怪我しちゃったのかなって」
「はははっ」
佐々岡の上げた笑い声は、いつもより高く、ガレージ内に静まりかえるほどに響いた。予想以上の音量で自分の声が戻ってきて、佐々岡は少し居場所が悪そうにしていた。
「……あんぐらいで腕痛めているようじゃ帰宅部やってられないからな。心配すんな、どこも痛めてないし、傷つけられてもいないから」
そう言って今度は控えめに笑った。
太一の洞察力が優れているのか、または単に佐々岡の嘘が下手なのか。どちらにしても、太一にはこれ以上踏み入ったことは聞けないし、それが二人が二ヶ月弱の付き合い(と言っても帰り道ぐらいでしか話しないけど)で組み上げていった絶対的な距離で、これ以上縮まることはない。お互いが持つ外向きの領域が重なったグレーゾーンで付き合うのだ。
だから太一には、佐々岡が意地となってひた隠しにする怪我のことを気遣うことも許されないし、また人を巻き込んでしまった自己嫌悪を、この指のことを、相談して外に吐き出すことも許されなかった。
「警察に連絡しなきゃな」
ガレージの冷たい壁を背にもたれかかり座っていた佐々岡が、数分続いた沈黙に耐えきれないといったふうに立ち上がった。
「携帯電話持ってるの?」
「今時持ってないのはおまえぐらいだっつの。それと、”携帯電話”じゃなくてケータイと言えケータイと」
しょんぼりする太一を尻目に佐々岡は電波を捕まえに表に出た。それから程なくしてガレージ内に冷たい静寂が戻った。
一人になる。慣れ親しんできたはずの甘美な静寂。静寂とは、何も起こらないこと。何も起こらないということは、苦しまずに済むということ。それは、当時中学生だった太一が至った結論だった。
この指は、想像以上の面倒を引き起こしてきた。
中学生の頃の話だ。
「その指をどうにかしてくれよ。何度面倒を巻き起こしたら気が済むんだ」
「人に指を向けちゃあいけないって、そんなことも知らない。しつけが足りないんじゃないのか?」
「指さずにはいられない? あのねぇ、あんた頭おかしいんじゃないの」
立て続けに起こしてしまった面倒。責め立てられるばかりの現状が嫌になって、太一は自己擁護のために人差し指のことを話してしまったことがある。同情という名の救いを期待していたのかもしれない。今となっては、浅はかな衝動に駆られたあの時の自分を後悔するばかりだ。あの日以来、中学校内はおろか、近所でも異物を見るような目を向けられ続けることになった太一は、家と学校を往復する以外に外へと出なくなっていった。
それが、上京して新しい高校生活が始まると、徐々に変わってきた。特に太一にとって大きかったのは、佐々岡葵との出会いだった。
さばさばしていて、誰とでも偏見の目を持たない付き合いが出来る。太一に対しても例外なく、同じ高さの目線を持ってくれた。偏見がはびこるこの場所で、その目線を持って接してくれたのは佐々岡だけだった。
わずかだが、変わり始めようとしていたのだ。その矢先の出来事だった。これ以上、迷惑を掛けたくない。面倒に巻き込まれたくない。これ以上……。
何も起こらない世界を望んだあの頃に、また引き戻されようとしている。今ではその事が耐え難いほどに恐ろしかった。
「太一っ!」
静けさに慣れきっていた耳には、その声は鮮烈だった。
「表だ! 火事が!」
太一はすぐさま立ち上がって表に向かった。
……あっ。
立ち上る黒煙。目に見える熱気。
「こりゃ相当大きいぞ……!」
マンションの向こうに上る、まっすぐ天へと向かう煙に指と共に見とれながらも、太一は別のことを考えていた。
思い出そうとしているのは、先程遭遇した男の、その格好。記憶間違い、あるいは見間違いでなければ、男の着ていたそのつなぎは確か黒くすすこけていた。男の行動と、慌て具合と、言動と。記憶の大概を引き出す。
火事。逃亡。警察。顔が割れる。直接を嫌う。
なし崩し的に仮説が導かれていく。
「行ってみよう。何か手伝えることがあるかもしれないだろ」
「あ、ちょっと……!」
太一の制止は追いつかずに、佐々岡はすでに走り出していて突き当たりを曲がろうというところだった。
悪い予感が一人、好き勝手に暴れていた。
「病院……?」
住宅地迷路を抜けて辿り着いたのは、轟々と燃え上がる都立の総合病院だった。発見と通報が遅れたのか、消防車の到着が遅れたのか、はたまた火勢が強すぎるのか。理由は分からないが、消防隊の消火活動にも関わらず、すでに半焼と言っていいほど建物は燃え上がっていた。
太一は差し迫った事態を把握していながらも、独創的に躍り上がる炎火に魅了されてしまっていた。先程の煙の時もそうだが、どうも太一は視覚情報に素直なところがあるようだ。
「君、危ないから下がっていなさい」
日本人の平均をゆうに超えた長身の消防士が、火に見とれて停止している太一に注意した。きりりとした一言で呪縛から解けた太一は、軽く頭を下げて野次馬の立ち位置までおとなしく下がっていった。
太一には何となく分かっていた。この火事が、先程遭遇した男による放火が原因なのだと。状況とタイミングが整いすぎているのだ。そこで太一は男の動機について想像を重ねてみた。
例えば。男は元は殺人犯でこの病院の精神科に精神鑑定を受けさせるために連れてこられた。しかし、医師らの目をかいくぐって脱走しようと決めた男は、病院に火を放ち、その混乱に生じて脱走した。そして逃げる途中で太一らと遭遇、佐々岡にノされた。しかし、こうやって憶測を立ててみるにしても、確かな証拠などなく、しっくり来る動機を考えつくに至らなかった。
太一は、「快楽犯による放火」という可能性があることを考えると、どうやっても結局は快楽犯説に落ち着いてしまうような気がしてきたので、それ以上仮説をいじくるのをやめることにした。第一、先の男=放火犯と決まったわけでもないのだ。単なる太一の妄想に過ぎないかもしれない。
ところで。佐々岡はどこに行ったのだろう?
手伝えることはあるかも、と佐々岡は言っていた。太一は、ついさっきの危険なところを助けてもらった佐々岡の勇気と正義感を思い起こしながら、まさか正義のヒーローだか少年漫画の主人公だかみたいに、炎燃えさかる建物に真正面から突入していたりしないだろうなと心配していた。
「まだ残っている奴がいるかもしれないだろ!」
「いや、ですから火の勢いをまず抑えてから……」
「もういいっ、あんたらには頼らないっ!」
……この声は。
そして、この流れは。
太一は参ったなと言う顔色を隠しもせずに、仕方なしに佐々岡の怒鳴り声の方へ駆けていった。
消防士と押し問答する佐々岡の様子がおかしいことに気づくのが遅れたのは、佐々岡は単純な正義感に燃えているものだとその動機を決めつけてしまっていたからだ。
ヒーロー気取りと言うと言葉が悪すぎるが、自分が助けなければ誰が助ける、そんな信念に突き動かされている。その時の佐々岡の行動理念を、太一はそう解釈していた。
でも、この時ばかりは違った。佐々岡を動かしていたのは誰しもが持つ、もっと単純で純粋な感情だった。
「さ、佐々岡、ちょっと待ってって」
佐々岡はぴたりと足を止め、何かしら強い光を秘めた眼を太一に向けた。今もなお病院を灰に帰そうとしている炎の揺らめきが、その瞳にも宿っているような気がした。
佐々岡は何も言わなかった。だけど、その眼は確かに「止めるな」と語っていた。
「葵ちゃん!」
太一の後ろから声がした。振り向くと、女性の看護士がこちらに必死に走ってきていた。
「千鶴ちゃんがまだ病室に残っているのかもしれないの!」
千鶴。
……チヅル?
太一の知っているチヅルは一人しかいない。
「……わかりました。私が助けます」
「で、でも千鶴ちゃんの病室は火元に近くて危険よ!」
「大丈夫ですよ。大して太い人生を送っていないんだ、こんな所で死んだりしませんよ」
そう言って佐々岡は戦地に赴く兵のような眼差しを残して地面を蹴った。
このまま佐々岡を行かせていいのだろうか?
僕は、内心迷っていた。
だけど、僕の本能はその迷いを嫌った。
「待って!」
立ち止まり振り返った佐々岡の眼は、明らかに苛立ちの色に変わっていた。
「行くなって言っても私は行く。止めると言ったらおまえを殴ってでも行く」
「違う、止めない。……僕も行かせて。チヅルさんを助けに」
「……はぁ?」
高ぶった心が、肩すかしを食らったようだった。太一に向けられていた佐々岡の視線から、敵意が消えていた。
「何だっておまえが一緒に」
理由。あふれかえった心の中から本心という名の理由を問い合わせてみても、どうせはっきりとした答えは出ない。
「チヅルさんを助け出してから話すよ」
太一は頷いた。それに呼応するかのように佐々岡も頷いた。最後の決意の確認だったのかもしれない。
二人は消防士の制止を振り切り、病棟へと突入していった。
正面玄関の割られた自動ドアを、ガラスの破片に気を配りながら通る。館内に入ると、視界が熱で歪んだ。建物内に充満するその熱気だけでも外にはじき出されそうだった。熱いのは嫌いだったが、もちろんそんなこと言っている場合でも考えている場合でもない。
「チヅルさんの病室は?」
「五階だ、中央階段使って行くぞ」
佐々岡はハンカチで呼吸器官を煙から守りながら話した。それを見て太一も慌ててポケットからハンカチを取り出し、口に当てた。
……あっ。
言葉よりも先に走り出していた佐々岡を追っていた太一だったが、エレベーターフロアにあった館内案内図の前で指をさし、それに従って立ち止まった。館内の概要について、知っておかなければならない気がしたからだ。
建物は八階建てで地下も入れれば十階建てだが、地下には駐車場や図書室、物品センターや患者のカルテを管理している病歴センターなど、病院の主要な施設などはない。その証拠に、地下へ通じるエレベーターはエレベーターホールにある四台中一台しかなかった。よって、外来や診療科、病棟は地上階にまとめられているわけだ。一階の案内を見る。外来受付はもちろん、放射線治療室から内視鏡室、食堂売店ATMと様々な機能が集約されている。二階には、普通の外来に加え救急外来があり、その他医務課窓口、医務課相談室なども設置されている。
一・二階に病院の八割方の機能は一括されていた。三階から上の案内には、病棟という表示が並んでいる。佐々岡は五階に行くと言っていた。太一は五階の案内を確認する。
……え?
「太一! 置いてかれたいのか!」
魂を丸ごと抜き取られたかのように呆然と立つ太一。佐々岡の怒鳴り声でも気を取り戻すには弱すぎた。
「太一っ!!」
「……あっ、うん」
二回目の呼び声で我に返った。太一は邪念を振り払うように頭を横に振ると、チヅルを助けようと言う思いを新たにして、駆け出した。
日頃からどれだけ抜け目無い行動を取るような人でも、非常事態でも普段通り冷静な判断で的確な行動を取れる人はいない。あるいは消防士のように、あるいは軍隊のように非常事態を想定した訓練を積んできた人間は別だが、佐々岡は無論消防学校で訓練した経験などない。いかなる状況でもいつもの判断力を失わないことなど、到底無理なこと。
だから、二人が……というよりは先に立って走った佐々岡が……五階の廊下に立ちふさがる防火シャッターの存在を予想することが出来なかったのは仕方のないことだった。
階段を駆け上がり辿り着いた先で、二人をあしらうかのようにシャッターが待ちかまえていた。
「そっか……閉まっちゃうよな……」
太一は轟々とうなる炎にも負けそうな小声で呟いた。
チヅルの病室への道は完全に遮断されていた。学校でよく見た防火扉のように、人が通れるように横に扉が付いていたりしない、完全な壁。その先の様子をうかがうことは出来ない。厚い壁の向こうから何となく伝わってくる熱気を感じるのみだ。
横で呆然と立ち尽くす佐々岡をちらりと見る。……目の前の揺るがないシャッターが何を意味しているか、佐々岡、もうとっくに気づいているはずだ。それなのに、未だに否定の眼差しで防火シャッター……もしくはその向こうの絶望的な光景まで……見つめていた。肩を落とした佐々岡に掛ける言葉が、太一にはどうしても見つけることが出来なかった。
あきらめが脳裏によぎっていたはずの佐々岡が、再び顔を上げた。あきらめを払拭したはずのその顔が、太一には何故か魂を悪しき者に売り払ってしまった人間のそれに見えた。
今来た階段を戻る。太一は佐々岡の後を追えず、踊り場で立ち尽くし待っていた。一分経たないうちに佐々岡は戻ってきた。その両手に消化器を抱えて。明らかに、消火活動をするために持ってきたものではなかった。
「さ、佐々岡」
太一の言葉が届いていたのか分からない。しかし、太一がその時の佐々岡を止められなかったのは確かだ。
両手で担ぎ上げられて消化器が、シャッターに向かって振り下ろされた。
破壊を尽くした轟音が、階段の踊り場中に響いた。
最初の衝撃音の瞬間で、太一の知っている佐々岡はそこにいなくなってしまった。
澱んだ熱気。傍観する人。破壊行動を繰り返す人。終わりを迎えようとする病院。
全てに説得されて、太一は佐々岡を止めることをあきらめてしまった。
時間を知る術はないが、多分五分程度は経過したと思う。しかし、終わりに向かっているこの建物内では細かい時間の概念など関係ないのかもしれない。
太一は階段に座り込んで、取り憑かれたように消化器で殴りつける佐々岡を何も言えずに眺めていた。
「つっ!」
振り下ろされ続けた佐々岡の手から消化器が落ちた。握力が失われているのが、傷だらけで震えた手を見るだけで分かった。
「くそっ……」
大体佐々岡は、先の逃亡男との接触で腕を怪我しているはずだった。傷ついた身体で重い消化器を振るうなど限界へ急いてるのに等しいのだ。だけど、そのことを仮に太一が伝えたとしても、佐々岡は最後の意地を通して断固言うことを聞かないだろう。だから、太一はせめて違う話をすることにした。
「……この先にチヅルさんがいるんだよね」
「あぁ」
「この先って……精神科病棟、だよね」
「……あぁ」
案内図で確認した事実だった。この病院の五階は精神科の一般病床が五十床。それだけだった。
血の滲んだ手のひらを確かめて、再び消化器を握り、振り下ろす。何を確かめたのか、まだ腕が持つという判断を下すための確認だとしたら、佐々岡の判断力は零に近いほどに低下しているはずだ。
「チヅルさん、精神科に入院して……」
「がんばりすぎなんだ、あいつは」
「えっ」
「いや、違う。あいつは、自分が苦痛に晒されていることにも気づかないで、みんなため込んじまう鈍感バカなんだ。だから、私たちから逃げ出すことも知らなかった」
「私、たち?」
「チヅルがここに入院せざるを得なくなったのは、私たち……私のせいだから」
太一はしばらく黙って続きを話すのを待ったが、それ以上はなかった。
……でも。
太一は絶対的な距離感について思った。二人の間に造られた共通領域……お互いが足を踏み入れても傷つくことのない外向けに造った領域……が、秘密の共有によって広がり、動くことのなかった二人の距離は縮まった。それで十分だった。太一はうれしかった。
「チヅルさん、助けなくちゃ」
「そうだな」
佐々岡の握る手に新しい力がこもったような気がした。それを見て太一は根拠のない安堵感を覚えて、一人笑顔をこぼした。
安堵感に溺れていた。
だからこそ、それに寸前まで気づかなかった。
人差し指が鳴らす警鐘に。
……あっ。
シャッターの小さな亀裂。漏れ出でる白い煙。
指は、ずうっと警告していた。
「下がって!!!」
警告が太一の声に乗るには、僅かに遅かった。佐々岡はもう、最後の一撃を振り下ろしていたからだ。
シャッターに完全な穴が開いた。シャッター向こうの空間が、酸素に飢えてこちら側の酸素を飲み込んでいく。
その瞬間。
急激な酸素の流入が、バックドラフトを起こした。
消化器でシャッターを殴りつける音など比べ物にならないほど、爆発音は激しかった。だが、太一がその音を「うるさい」と感じる頃には、爆風で床にたたきつけられていて鼓膜の心配する余裕はなかった。
うつぶせに倒れた太一は、大量の酸素に喜び踊り狂う炎の音を動かぬ背中で聞いていた。身体は……大丈夫か? 少しずつ、試作ロボットの初起動の時のようにひとつひとつ身体の機能の万全を確かめながら起きあがる。そしてすぐに佐々岡を探した。
佐々岡は海岸に打ち上げられたみたいに上り階段側に倒れて気絶していた。太一は言うこと聞かない身体なりに全速力で佐々岡のもとへ寄った。
太一は肩を揺すって呼び起こそうとした。だが、肩に掛けようとした太一の右手は、途中で止まった。
佐々岡は頭を赤に染めていた。
「佐々岡……?」
返事は返ってこなかった。
炎は空気を蝕んで、なおもその領域を広げんと燃えさかっている。炎は確実に二人を飲み込もうとしていて、それも時間の問題だったが、今の太一には全く関係のない別世界の出来事のように思えた。
何で佐々岡についてきたのだろう。その思いが最初にあった。太一が来なければ少なくともこんな事態にはならなかった。何しに来たんだろう。本当に。本当に。涙さえも呆れて流れてくれない。
なおも動かない佐々岡に虚ろな目を移した。病院内に突入する時、佐々岡は太一に聞いた。何故おまえがチヅルを助けたいのかと。その時太一は答えなかった。太一自身、答えが解らなかったからだ。
今ならその答えが見つけることが出来るだろうか?
太一は今までの自分……佐々岡に出会う前も後も……を振り返ってみた。自らの意志がどこにもない、他人に圧されるだけのパッとしない生き方をしてきたと、自分でも思う。ふがいない自分の脱却?
何時間か前の逃亡中の男との遭遇を思い出す。ナイフを構えた男に対して、何も出来ないどころか、足手まといになって佐々岡に面倒を掛けてしまった。佐々岡への恩返しの意味?
数週間前に、佐々岡がチヅルについて話したことがあった。太一はチヅルに対して佐々岡の話だけを頼りにイメージを膨らませるだけだったが、太一はチヅルに深い親近感を抱いたのだ。チヅルに近いものを感じたから?
新学年になってからというもの、下校する時は必ずと言っていいほど佐々岡がくっついてきた。初めは太一は正直嫌がっていたが、そのうち当たり前のことのようになっていた。今まで一緒にやってきたから?
可能性のある限り理由を考えてみても、しっくり来る答えは得られなかった。答えは一つではなく、複数なのかもしれない。だが、考え上げた答えを合わせてみても、何か足りない欠落感は消えなかった。何かこう、一つの真実のような答えがどこかにあるような気がしてならなかった。
太一は何かに導かれるように手を佐々岡の首元に当てた。ゆっくりと目を閉じる。何億年も変わらず続いてきた生命の鼓動が聞こえた。
目を開けると、変わらない光景が入ってきた。変わったのは、その光景を受けとる側だった。
失うものが出来て初めて、本心と向き合うことが出来るのだろうか。
やっと、気づくことが出来た。なんてことはない、それは本心と向き合うことで初めて気づく、最も基本的で、最も複雑な感情だった。
「僕、行くね」
佐々岡の思いを果たすため、自分の本心に挑むため、太一は立ち上がった。こんな気持ちに満ち溢れるのは、これで最後かもしれない。それでも構わなかった。今の太一には人を救える予感だけで十分だった。
先程の爆発で大きく開いたシャッターの穴を抜け、未だ燃え続ける病棟内を行った。建物を包み込む炎は救いではなく破滅の業火であることは間違いなかった。だけど、それでもいい、いっそこの炎で僕の過去や終末感を燃やし尽くしてくれ、太一はそう思った。
入院生活が始まると、病室から見える木の枝や葉っぱが自分の命の灯火に見えてくるなんて話をどこかで聞いたが、本当に見えてくるものなのだと感心しきっていた。もっとも今は夏。命の灯火は梅雨の間の太陽に照らされながら、緑々と繁っていて枯れる気配もない。
「先日I区で起きた中央病院放火事件で、警視庁は今日未明に同病院の入院患者であった平野正男容疑者(24)を放火及び殺人未遂の容疑で逮捕しました。平野容疑者は「看護しに好きだと伝えたが断られた。腹が立ったので火を放った。捕まるのが恐くて逃げ出した。今では反省している」などと話しており、警察はさらなる動機の追及に……」
ぽちっ。
テレビを消すと、とたんにやることが無くなる。小説も漫画も早速読み飽きた。
でも、もうすぐ有り余った時間にに困らなくなる。
「太一っ、ゲームしようぜっ!」
勢いつけて開け放たれたドアの外には、頭にネットを巻いた痛々しい格好とは裏腹に、元気をあり余して垂れ流しているような佐々岡がそこにいた。
午後二時。定刻だ。この時間、必ず佐々岡は病室を抜け出してやってくる。
結論から言うと、太一も佐々岡も、そしてチヅルも全員奇跡的に助かった。頭を怪我した佐々岡も、病棟廊下で一酸化炭素中毒に陥り力つき倒れた太一も、あと五分消防隊の発見が遅れたら命に関わることになっていたと言われ、二人は凍り付いた。
勝手に火災現場に踏み込む愚行を、散々いろんな人に怒られた二人だったが、その反面、感謝されもした。逃げ遅れていたチヅルのことをだ。
煙を吸い込みすぎて倒れていた太一を消防隊が発見した時のことだ。隊員の一人が、太一の伸びきった腕の先、指先に気づいたのだ。指先は、一点を、一つの病室を指していた。
「チヅル、感謝してたよ。「あなたの指のおかげで助かった」って」
指? 僕じゃなくて?
そう聞くと佐々岡は大きく笑った。看護士に静かにと注意されそうで太一はびくついていたが、今の佐々岡に病院のマナーを守れと言うのも酷な気がした。
コントローラーを握る手に力を込めながら、太一は指のことを思った。
指さずにはいられない。他人を巻き込むだけだった。指を切り落とそうと思ったことさえあった。何度も面倒を起こしてきた指が、初めて人の役に立てた。人を救うことが出来た。もう、それだけで十分だと今までの不幸は全部チャラにしてもいいと思えるようになった。
「まぁ、私だけに行かせておけばこんなにけが人でなくて済んだんだけどな」
「……そうなのかな、やっぱ」
テレビ内のカートのエンジン音だけが病室を占めた。
「太一」
「……何?」
太一はただいまデッドヒート中のゲーム画面を気にしながら佐々岡の横顔に目を向けてみた。
「……ありがとな」
「えっ」
……あっ。
佐々岡の初めて見せる、恥じらいの顔。
意外な表情に、思わず指をさしてしまった。
片手離れたコントローラーは操縦主を失い、結果、太一のカートはコースアウトした。
「よっしゃ、勝った!」
「うわ、卑怯だよ、それ」
「勝ちは勝ち。よしじゃあ、売店で焼きそばロールと紅茶買ってきてくれ。看護士にばれたらヤバイから、こっそりな」
太一は渋々ベッドから立ちあがり、財布抱えて売店に向かった。
二人の距離がこれ以上に縮まるのは、まだまだ先の話になる。