国道0号線 上
目の前に 垂らされた蜘蛛の糸は
どうにも訝(いぶか)しくて
それでも男は光を欲した
わらにもすがる思いを胸に秘め
男は掴んだ
あまりにも理不尽な救いの糸を
***
暗がりに紛れてしまいそうな、濃い灰色のボディを持つ軽自動車が、二人の男を乗せて、国道を郊外へと向けてかなりの速度で走っている。 人知れず、足跡残さず。
走った距離に比例して、様々な景色が過ぎ去っていった。ところどころに並ぶ広告看板が流れ、都心にしては広い駐車場を持つパチンコ屋が流れ、川を渡す、アーチが立派な架線が流れた。それら、うつろい変わり行く景色は、長瀬和樹《ながせ かずき》に確実な距離感と現実感を与えてくれた。
時刻は二時を回っている。この時間ともなると、都会の中核に通じる大きな国道でも、人通りも車の通りも少なくなる。広大な、無人アスファルト世界。その空間的ギャップが生み出す違和感は、現実と紙一重に隣する異世界にでも迷い込んだのかと思わせる。小さく歪んだ大通りの沈黙を切り裂くかのように、灰色の車は制限速度を超えて疾走する。
しかし、いくら速く、どれだけ遠くに逃げようとしても、頭上の月は和樹を追尾する。和樹が手を大きくのばそうとも決して届かない遙か空の上に、半分に欠けた月が浮かぶ。月は、象徴の鎖を照らし出す。和樹を縛るのは、過去。戒め。そして、約束。それらは目をそらさせないほどにまばゆく輝き上げられている。銀色の月は妖しい光を放ちながら、和樹をあざ笑っているように見える。
無駄だよ。逃げ切れないよ。君がそれに乗ってどれだけ疾らせようと、はいずり回って私の目の届かぬ所へ逃げ込もうとしても、それは徒労にしかならない。私はどこまでも、世界の果てまでもついていく。君が疲弊し、絶望するまで。
和樹は、息苦しさも感じさせる深く陰鬱な空を、それ以上見上げようとしなかった。これ以上見続けると、そのまま薄暗い夜空の底へと飲み込まれてしまいそうな気がしたからだ。
「安心しろ。追っ手など来ないよ」
和樹の不安を察するかのように、運転席でハンドルを握る男が話しかけてきた。二十三歳の和樹とは違い、三十代半ばあたりの、落ち着き払った男の声だ。長いこと口を開かなかった男の言葉に、助手席の和樹が反応してわずかに首を男に向けた。
「この車はとっくに都の二十三区内からは脱している。それからいくらか時間がたった。……今はおそらく、立川か国分寺を過ぎたあたりだ。もう安全圏に入っていると言って過言じゃないだろう。君は何にも脅えることはない。君はすでに自由を手中に収めているんだ」
和樹は男の話の間に視線を正面に戻していた。ギアチェンジのために細かく動く、男の左手が視界内にわずかに入る。セカンドからサード。サードからセカンドへ。顔は真っ直ぐ前を見据えたまま。
運転席の男は、和樹に対して常磐輝夜《ときわ かがや》と名乗っている。その名前が本名かどうかなんて和樹には分からない(珍しい名前なのは確かなのだけれど)。そうでなくとも、たった今彼が名乗った名前が正しいのかどうか、親が命名した名前か、自分で付けた通り名的な名前か……それらのことは、今の和樹には何ら関係ない問題だった。
今の和樹が知らなければならない情報。それは、この男……輝夜が一体何者なのか。そして”何故和樹を助けたのか”。全ての疑問はその一点に集約されていた。
和樹は助手席の反対側の景色を眺めるふりをしながら、輝夜の横顔を確かめた。輝夜の輪郭は丸よりかは四角に近く、えらもはっている。立派なひげもたくわえている。それでもスマートなイメージを保っており、それでいて頼りがいのある兄貴分を思わせる風貌を持っていた。他には、外面には至って目立った特徴は見あたらない。地元の町中で散歩でもしていたら、毎月必ず一度は見かけそうな顔だと、和樹は思う。
和樹は、それまで絶やさずに保っていた警戒心を、いっさい抱えることなくまじまじと横顔を観察していた。しかし、輝夜がちらりと横目でこちらを確認した気がしたので、和樹は慌てて視線を逸らした。結局もう一度輝夜の方へ目線を向けることは出来ずに、あきらめて、思考の渦へと考えをめぐらせることにする。
***
CDプレーヤーから、聞き覚えのない音楽が流れている。流れるようなリズムに乗せられたドラム、ベースが印象的な曲だ。ボーカルは入っていない。インストゥルメンタルだろうか、と和樹は思う。
「ドラムンベースだよ」
和樹の疑問を察知したようで、輝夜は絶妙なタイミングで和樹の思考回路に答えをはさんだ。
「どらむ、ん……?」
「『Drum'n'Bass』。そういう音楽ジャンルがある。元々はイギリス生まれのダンス音楽だったそうだ。リズム、テンポが極めて速く、そこに複雑なドラムが入って、重低音のベースが入る。ドラムとベース。だからドラム”ん”ベースだ。ドライブに出かける時はよく聞いてる。それこそ必ず、と言っていいほど」
解説を聞き終えて、あらためてプレーヤーから流れる曲に耳を傾ける。そして、目を瞑る。疾走感にあふれている。ドライブにはお似合いだな、と、和樹は無知ながら思った。
ただ、ノイズとしていっさい阻害されることなく、すんなりと耳へと入ってくる心地よさは、眠りの世界への誘いでもあって、深夜のドライブ中にかけるのは危険な気もした。
「家でも、こういったような音楽を?」
「いや、車で出かける時だけだ」
シフトノブに乗せられていた左手で、プレーヤーを指さしながらこう言った。
「ドライブ用CD−RAMは、ここに入れっぱなしにしてるんだよ」
「お気に入りなんですね、相当」
「あぁ、そりゃあね。とりわけドラムンベースは。……少々、語ってもいいかな」
和樹は顔を輝夜の方に向けずに、こくりと頷く。輝夜は確認の意味で一度頷き、長き言葉を紡ぎはじめる。
***
自分の守備範囲内の話題となると、人が変わったかのように熱く語り出す人はよくいるものだが、輝夜も例外ではなかった。彼は車を一定速度で走らせながら、その速度と競い合うかのように一人語りを展開していった。心なしか、ハンドルを握る手にも力が込められているように見える。
輝夜の話には、和樹には何のことだか頭を悩ますような、専門用語と思われる単語……ジャングル、テクノ、4heroやら、スクエアプッシャーやら……もたくさん出てきて、相づちを打つタイミングさえ、和樹はなかなかつかめないでいた。
輝夜よって独占された会話はまだ続いている。
「さっきも言ったけど、ドラムンベースの特徴として、駆け抜けるようなメロディや躍動感あふれるドラムがある。これらは、ひとつの大きな河だ。太く、速く、深く暗く、しかしながら心地よく流れていく。一般的なリスナーはその流れに身を委ねるだけで、いい曲だ、とあたかも音楽を聞いた気分になれる。まぁそれは何も間違ったことではない。澄んだ水の流れがすぐそこにあったら、その身にまとうものを投げ出して、体を浮かべて流れに意識を任せたくなる。それは、河を楽しむ者としてごく自然な心理だ」
車道の信号がちょうど赤に変わる。輝夜は左足をやわらかに使い、ゆるやかなブレーキを掛ける。慣性を遮るその行為さえも、一種の心地よさに変わる。
信号待ちの間は、輝夜は話を続けようとはしなかった。信号が変わり、アクセルを踏み込む、車が加速に乗ってきたところで、輝夜は話を再開した。
「ただ、ドラムンベースの流れというものは、そんなに澄み切ったものではない。さっき私は河に例えたが、何も、山々から溢る、清涼感のある夏の上流河川だけが河と呼ばれるわけじゃない。ドラムンベースには、暗く、底知れぬ夜の海のような河が存在しているんだ」
和樹は小さく頷く。輝夜の話をどうにか聞き取ること、解釈することのみに神経をとがらせる。
「急な流れの川底に潜ってみると、そこには流れの遅い、浅瀬とは違う別世界がある。深く淀んだ、仄暗い水の底だ。だけれど、そこには地上に生きる人間が普段触れることのない未知なるパワーが存在している。……私の言いたいこと、なんとなくでもわかるかな」
「えぇ、なんとなくは」
そうは言ったが、実のところ和樹にはもう何の事やら、理解に苦しんでいた。
「水底でゆっくり進行する流れも、その上を追い抜かすように速く進む流れも、ひとつの河であることは同じだ。お互い、決して欠けたりすることはない。……ここで、ドラムンベースの話に戻ると、テンポよいリズムに激しいドラムが上乗せられる……そのドラムを下から支えるように比較的ゆったりとしたテンポでベースが入っているんだ。ドラムが役者だとしたら、ベースは文字通り舞台……土台になる。そのドラムとベースの相対がドラムンベースの醍醐味でもある」
「なるほど」
「私はそうやって曲の表面だけでなく、曲の深みから全体を支えているベースのみを汲み取る作業が大好きなんだ」
「深みから、汲み取る」
和樹は耳に残った言葉を、もう一度繰り返す。
「そう」
和樹は音楽に耳を傾ける。輝夜のやっているように、ゆったりと流れるベースのみを汲み取ろうとする。しかし和樹は、深き淀みに自ら触れることが出来ず、上手いこと汲み取ることが出来なかった。
***
二人が乗る車は、大きなアクシデントに阻まれることなくここまで順調に走らせてきていたが、輝夜も想定していなかった不測の事態が起きた。
前を走る白いワゴン車が、徐々に速度を落としてくる。輝夜が首を伸ばすようにして前を確認すると、前方に小さな渋滞が出来ていた。
「信号もないのに、何だろう」
和樹は独り言とも区別が付かないつぶやきで、輝夜に尋ねてみる。事態を把握していない呑気な和樹に対して、輝夜は重大な忘れ事を思い出した時のように深刻な顔を浮かべていた。
やがて一つ前のワゴン車もその渋滞にさしかかり、二人の乗る軽自動車も足止めをくらった。もう一度前の様子を確認して、輝夜は参ったなと言うように深いため息をついた。彼は耳の後ろを掻きながら(どうやら、どうしようもなく困ってしまった時の輝夜の癖のようだ)、これまた独り言をつぶやくように言った。
「検問……? どうして……こんなところでやっているんだ……」
「どうかしたんですか」
輝夜はくるりと和樹へと体を向ける。眉間にはしわを寄せたままで、やはり深刻そうな顔をしている。
「私は、今夜の逃走中に警察に接触しないようなルートをあらかじめ想定して、より安全な逃走経路を練ってきている。君に及ぶ危険を出来るだけ最小限に収めようと考えての事だ。私が今日の逃走で、高速道路を使わずに避けたのも、何か不測の事態が起きた時に逃げ道が無くなるのを恐れたからだ。……まぁ、それはまた別の話だとして。ここに着くまでも、基本的には国道や大通りを通ってきたが、警察署や交番前、飲酒運転の検問などを避けるために横道や裏道を利用した。特に検問は今挙げた中では一番危険度が高いから、事前に下調べをして、確実に避けられるような道のりを練ってきた。それなのに、だ」
輝夜はそこで言葉を切る。和樹は彼の双眸(そうぼう)が結ぶ先を見た。整列させられた光るカラーコーン、誘導を行い彼らの進行を阻む警察官。和樹はそこで始めて、今置かれている危機的状況に気付くことになった。
水銀温度計の先を氷水につけた時のように、全身から血の気が引いていく。和樹の顔色は、見る見るうちに病的とも言える色へと変わっていった。
捕まる……
終焉を意味する言葉が、脳内をよぎる。
「どうにかして、引き返せないんですか」
震えを押さえた、低く小さな声で輝夜に問う。
「ダメだ。今さら無理矢理引き返してしのぐには、危険が多すぎる。何とかこの場を逃れられたとしても、カーチェイスの末に待つ結末は目に見えている」
「かといって、そのまま脱獄者の俺を通してくれるとはどうしても思えない」
緊張を交えた沈黙が、冷たく広がる。エンジンの稼働音やプレーヤーから流れる音楽は絶え間なく流れ続けるが、その音が包むようにして車内に収まる小さな空間を生み、二人の間だけに広がる本当の静寂を作りだしているようだった。
「……伏せてろ」
「え?」
「私がいいと言うまで、絶対顔を上げるな。絶対だ。たとえ検問の奴がお前に気付かないで通してくれたとしても、お前の顔を見られるような事態だけは極力避けたい。後は私がなんとかするから」
和樹はおずおずと頭を下げる。輝夜に、もっともっとと頭を奥まで押し込まれた。前のワゴン車が検問を抜ける。次は、彼らの番だった。
***
検問している警官は、外見上では、お世辞にも警察官としての威厳があるとは言えない、物々しさも何もないおじさんだった。私服警官に向いていそうだ、と輝夜は思う。
車をゆっくり止めると、すぐに運転席横へと警官がやってくる。窓を手の甲で小突き、窓を開けるよう促してきた。輝夜はそれに素直に応じた。普段の自分を越えるほどに、自然に振る舞う。
助手席に脱獄犯を連れているなんて、警官に悟られてはならない。
「飲酒運転の取り締まりですか。こんな時間まで、お仕事ごくろうさまです」
彼は先制攻撃と言わんばかりに、言葉をはきかけた警官を妨げる早口でまくし立てた。
「ちなみに俺は飲んでないですよ。事故でも起こして面倒なことになるのはいやですからね。あ、今は友人を送り返すところです。こいつを……」
「いいですから。免許証を見せてください」
最初の一言で、警官に抱いていた第一印象は、濃い色の油性絵の具で塗りつぶすように上書きされた。輝夜の動きが言いかけのまま、時間を正確に切り取られ、ぴたりと止められるかのように遮断された。
「はぁ。いきなり免許証ですか。アルコール判定機とか使ってとっとと白黒つけるってのが筋ってもんでしょ」
「免許証」
輝夜はおどけたしぐさを見せて、カバンへ手を伸ばす。警官はその間、微動たりせず輝夜が免許証を提示するのをじっと待つ。その視線は、揺るぎない。
「ほら。お望み通りの品ですよ。」
警官は無言で免許証を受けとる。写真、氏名、本籍、住所、有効期限……と、確認事項をなめるようにして確かめているようだ。一通り見終えた後、彼は重く小さく頷きながら、免許証を輝夜に返した。
「……問題ないな」
「でしょ、だから言った。ね、もういいかい、問題のない俺は行くよ」
輝夜はハンドルに手をかける。
「待ちなさい」
アクセルを踏み込もうとした輝夜を、警官が口で制止する。その声は相手の動きを止める意味では、警笛並の力を持っていた。
「……なんだい、せっかく予想を遙かに上回る早さで検問を抜けられたと思ったのに。まだ免許証を見足りないんですか」
輝夜は精一杯のおどけた態度を取ってみせる。あくまでも、自然を装い。
「助手席の方の身分証明が終わっていません」
ずっと体を丸めて頭をしまい込んでいたままだった和樹が、一瞬だけ動揺を隠せずに反応して体を揺らした。輝夜は和樹のその動きを肌で感じ、心の中で舌を打った。
輝夜は自分の平静を確認した後、ポーカーフェイスを保ちながら警官の表情を探った。輝夜の見たところ、今の和樹の反応に気付いている様子はなかった。
「見ての通り、こいつ今酔いに酔ってぶっ倒れそうなんですよ。勘弁してやってくださいよ。というか、何ですか。何故助手席に座っているだけの人間の身分証明を欲しているですか。法に触れる恐れのない人間に、公務を執行するだけの公務員が、何故興味を持つんですか? 別に単独で指名手配犯を追っているわけでもないんでしょ」
輝夜は挑発的な態度を貫いている。二人にとって都合の悪い質問をはぐらかし、いいかげんな振る舞いで苛立たせ、さりげなく癇に障る言葉を織り交ぜて、相手の冷静さを失わせる。それが輝夜の講じた策なのだが、ここまでこの警官はなかなか策に乗らなかった。
しかし、わずかに警官の目に迷いが現れたのを輝夜は見逃さなかった。彼はその隙につけ込み、揺さぶりをかける。
「……本当はさ、これ、飲酒運転の検問じゃないんでしょ」
それまで何事にも動じず、表情を固めたままだった警官の顔がわずかにこわばった。今度は注意深く洞察していなくてもすぐに気付くほどだった。
「検問情報サイトってのがあってさ、そこにアクセスすれば、すぐに全国の飲酒運転の検問情報得られるんだよね。情報はリアルタイムで更新される。誰でも簡単に、携帯からでもアクセス出来る。さらに言えば、もう少し”特別なこと”をして、よりディープな検索をかければ、もっと事前に確かな検問情報を、あらかじめ得られるんだ。よほど緊急の交通規制がかからない限り、その情報を持つ者が深夜に渋滞にひっかかることなんてまずあり得ない。……俺の言いたいこと解るよね」
警官はうろたえとあきらめを交えた、複雑な表情を浮かべる。うろたえはやがて、あきらめに上塗りされ、警官はため息をつく。
沈黙を貫くのに限界を感じたのだろうか、警官は重く固く閉ざしていた口を、ゆっくりと解いた。
「この地域に脱獄犯が潜伏している可能性がある」
不意をつかれた二人の心臓が破裂しかねないほどに大きく鼓動した。心臓が縮こまる音さえ聞こえそうなほどだった。
「潜伏という表現はいささか語弊がある。逃げ遅れている、と言った方が正確だ。上からの通達によると、脱獄犯は……」
「ま、待って待って、ちょっとストップ」
「何だ」
輝夜は大きく息を吸い込む。そこいらに分散していた魂が身体にするりと戻ってきて、なんとか現実感が復活する。
息が整ったのを確かめて、輝夜は警官に視線を向ける。睨み合いで負けることは、この探り合いで負けることに等しかった。
「そいつはどこの刑務所から脱獄したんだ」
「……それを教えることは出来ない」
「へぇ。どうして」
「これ以上の情報を与えることは、国家公務員ないし地方公務員の守秘義務に反することになる。その質問には答えられない」
「絶対秘密至上主義ですからね、あんたたちは」
「お前には関係ないことだ。いつ誰がどこから逃げたか、そんなこと知ってどうする。権力も持たない一般人に何か出来るとでも思っているのか」
警官はすでに苛立ちの色を隠せずにいた。
「”知ってどうする”」
信じられないと言わんばかりに輝夜は声を荒げた。
「どうする。……どうするって、気を付けることしか出来ないじゃないですか。ねぇ。もし私たちが運悪く、その脱走した凶悪犯に遭遇したとしても、僕らは下手に巻き込まれないように逃げたり、助けを求めることしか出来やしない。……目の前に在る悪と対峙しても、私たちは抵抗すらままにならない。私たちは、法の下で無力な存在でしかないじゃないか。縛られ、制限され、まっとうな正義を貫くことさえも出来ない。おじさん、あんたは義務を果たさなければならない立場だ。だが、それと同時にあんたたち警察官は使命を帯びているんだ。警察の使命は何だ? 市民や県民の安全を守るのが使命なんじゃないの?」
車後方で、不満をあげるクラクションが鳴り続いている。だが、二人の耳にまでは達していない。不自然で違和感に満ちた静けさに、空間は支配されている。
警官は、おずおずと視線を逸らす。それは、探り合いで負けた証拠だった。
「八王子刑務所」
「……八王子刑務所?」
輝夜はいかにも意外そうな声で聞き返す。
「ここからすぐ近くの、医療刑務所だ。犯罪者の中でも、主に精神患者が収容されている。だから普通の刑務所よりも、厳重な警備が敷かれている。そこでは、決して脱獄などいう最悪の事態は起こしてはならない。これは地元住民の信頼と、我々公務員の面子の問題だ」
「……そうか」
輝夜は、身体に大きな塊として残っていた不安を含んだ息を、残らず吐き捨てた。ぽっかり空いた感情の穴は、やがて安堵で埋め尽くされた。
***
「たく、偶然にも程があるよ。驚かせるなよな、寿命が半年分は縮んでしまった」
検問をどうにか通り抜けた二人。不測の事態での緊迫感もなくなり、輝夜は先ほどまでの話し方に戻っていた。
「まさか、同じ日、同じような時間帯に”私たち以外に”脱獄なんて考える輩とニアミスすることになるなんてね」
和樹は頷くことなく、話を聞き入れている。どこか、違う場所で思考にとらわれているようで、輝夜の話にも確かな反応を示さない。
「どうした? 何かまだ心配事でもあるのか」と、和樹の様子がおかしいとようやく感づいた輝夜が問う。しかし和樹は窓の外にある空虚な一点をぼんやりと見つめたまま返事を返さなかった。
「さっきの人」
前触れのないつぶやきだった。
「あんなにも簡単に重要なことを漏らしていた」
「そうだな」
「八王子刑務所って、この近くの」
「……大分近くだな」
和樹は感情を含ませた軽いため息をつく。輝夜にも、その意味は伝わっている。
「あなたは、その脱獄犯と何の関係もないんですか」
「……」
「あなたは一体、何者なんですか」
プレーヤーからのドラムンベースが、さりげなしに場を満たす。テクニカルなドラム、繊細に組まれたピアノのメロディライン。そして、ベースが曲の厚みを作り出す。全てが調和する。聞き飽きない……それとは少し違う。まるでその曲は、自分の欠けらであるかのように、人の心の隅に新たな心地よいスペースを作り上げ、かかせない自己の一端と化しているようだった。
曲が終わる。それと合わせるように、輝夜が答える。
「私はただの協力者だよ」
***
車はすでに、都外へと進めていた。とは言っても、突然風景から高層ビルや高級マンションが消えるわけではないので、視界の上では変わり映えはしない。そして、二人の間にも、変わり映えしない沈黙が漂っていた。
「常盤さん」
沈黙を先にほどいたのは和樹の方だった。
「……初めて私の名前を読んでくれた気がするな。んで、何だ」
「何故、俺を刑務所から脱獄させてくれたんですか」
今度は足元にあるおぼろげな影を一点に見据えたまま、自問するかのごとく話している。これまで何度も二人の間に展開された静寂が、生ぬるい空気と混じり合って広がった。輝夜は真っ直ぐを見据えたまま、慎重に言葉選びを進めているのが、和樹にすぐ伝わった。
「何故、か。その疑問は、今の自分にとって事実を知ることが、何か大きな穴から抜け出すための鍵となるはず、と考えることで生まれたものか、はたまた、単純な好奇心から来たものなのか」
和樹は少しばかり悩んだ後、首を横に振る。
「整理がつかないんです。俺の内面的な問題です。常盤さんから俺にとって蜘蛛の糸となった”あの封筒”を受け取ったその時は、ただあの場所から元の世界に戻って来られるんだと、そのうれしさだけが俺の中を占めていました。だからここまで何も言わずついてきた。でも、常盤さんと一緒にいるうちに、どうも不安になってきた。このまま何も知らずに逃亡生活を続けても、そこには自由になれたことの意義が存在してると思えなくなったんです」
複雑に構成された、心地よいドラムンベースが役目を終え、タイミングよくフェードアウトしていく。続きはない。最後の曲だった。
「常盤さんが、どうして、何を目的として、何万といる投獄者の中から俺を選んだのか。知りたい、いや、知らなきゃならない」
「……」
「教えてください。このまま警察の手から逃れられたとしても、上手く生きていける自信がない。不条理に包まれたまま、新しい足かせや鎖に繋がれたまま生きたくはない。そんなことなら……。俺、自ら望んでシャバから道を外して、あの奈落の底へとまた飛び込んでしまいそうなんです」
無言を埋めるエンジンの稼働音が、振動と共に届く。それは、二人の言葉の間を必死につないでいるようだった。
やがて、根負けしたかのように、輝夜が口を開く。
「わかった。私は君に、全てうち明ける。ただ、それは車を降りてからだ」
たった、一言。今までと同じはずの輝夜の言葉を聞いただけなのに、和樹は見知らぬ世界に一歩踏み込んでしまう感覚を得た。
和樹は、もう後には戻れないと悟る。しかし、彼の予言には、この逃避行の結末までは用意されていなかった。
二人を乗せた車は山梨県中心部にさしかかっていた。黒い森に囲まれた道を、なめるようにライトが照らし出す。やがて二つに別れる分岐点で、輝夜はウインカーを出し、大きく右折する。山肌に沿うような、曲がりくねった道だった。
やがて、街灯のない闇の道の真ん中で、車はゆっくりと止まる。森を照らし出すライトが消え、代わりに車内の明かりが点けられる。
「ここで降りてくれ」
「ここでって……。随分とへんぴなところに着きましたね」
後ろに積まれてる、黒い革製のボストンバッグ取ってくれ。そうそう、それ。輝夜は和樹から手渡しされたバッグを開け、両手をかき回すようにして、中から大きいアウトドア用のライトを二人分取りだした。
「遊歩道を通る。足場は木の板で整備されているが、そんなに平らでもないし、広くない。足元を照らして、十分気を付けてついてきてくれ」
和樹はライトを受けとり、点灯の仕方を確かめる。スイッチは、こりこりとした独特で奇妙な形をしていたが、触っているうちにすぐにオンオフの仕方を理解した。
和樹は体を真正面に輝夜へと向け、あらたまって問う。
「その場所は、この遊歩道、樹海を抜けないと、辿り着けない」
「そうだ」
「その場所に着けば、俺は助かる」
「……そうだ」
和樹は自嘲的な笑みを浮かべる。その双眸には、物語の結末が映り込んでいるかのように色のない光を放っていた。
車を降り、輝夜を先頭として、森の深みへと入っていく。日はまだ昇らない。彼らは、暗闇の核へと向かっていった。