国道0号線 下
三列に並べて敷かれた一本道。輝夜が足に体重をかけると、板はぎぃぎぃと音を鳴らす。和樹もそれに続いて音を鳴らす。ぎぃぎぃ。小気味よく、それでいて不気味でもある、正負を交えた音だ。
完成された暗闇を切り裂くように照らすのは、二人が持つライトだけだ。それ以外に、この深緑の黒の中、光源となるものはなかった。
和樹は足元を照らし、時々思い出したように前を行く輝夜の姿に光を当て、存在を確認する。周りの景色も照らし出そうとするが、強く生命力のある樹林のうねりが続いているだけで、変わり映えしない一連の流れしか目にすることが出来なかった。
輝夜は和樹を気遣っているのか、木板の軋みを一歩毎に確かめるかのごとく、故意的なゆっくりの速度で進んでいる。遅い足並みに歩調を合わせるのは、疲れる。みぎ、ひだり、みぎ、ひだり。終わりの気配のない単純作業を、辛抱強く続けることしか今の和樹には出来なかった。
遊歩道を行く間、二人は言葉を全く交わさなかった。それぞれの思いにふけっていたのも、特に話すべき話題がなかったという遠因もあるが、車を降りてから樹海に入るまでは無かった、細く見えない緊張の糸が張られていたからだ。今の二人を縛るものは何もない。無心に歩く。思いを馳せる。それぞれの。無心は保てない。思いは確信へと変貌する。ひっそりと。
***
和樹は、真っ暗闇であった空が白ばんできているのに気付く。樹海の闇も、徐々に外に漏れていき、わずかに輪郭を取り戻してきた。流転する木々の隙間を縫うように差し込んでくる、おぼつかない朝焼けの光は、和樹の心を打つものがあった。
空を見上げながら歩いていると、輝夜が急に足を止めて棒立ちになっていたのに気がつかずに、正面衝突してしまった。和樹は無防備な姿勢のまま、しりもちをつく。
「あ、っと、すんません」
和樹はもたもたしながら立ち上がって、尻の部分についたであろう汚れを、簡単に両手で払った。
背中を見せ、立ちつくしたまま、振り向こうともしない、輝夜。
違和感を感じる。もちろん、輝夜に対して、だ。和樹は声をかけられずにいる。ここで彼に干渉することが、何か、触れてはいけないものに触れてしまうことのように思えた。
輝夜は空を仰いでいる。それは、何かしらの答えが、ひとつの塊となって空から降ってくるのを、ただ静かに待っているようにも見えた。
和樹は一緒になって空を仰ぎ見る。だけれど、彼が求めている答えが一体何なのか、全く見当もつかなかった。
やがて、輝夜は仰ぐのをやめ、振り向かず背中越しに口を開いた。
「和樹」
静寂の中に身を置いていなければ聞き落としてしまいそうな、微かな声だった。
「……初めて俺の名前を読んでくれた気がしますね」
和樹は輝夜に声を似せてみる。だが、反応は見せない。
「人を、二人の人間を死に追いやった」
「え?」
「人を殺したことに、罪悪感を感じているか」
確かに声量は小さい。樹葉が風に揺れる、その音にさえもかき消されそうなほどだ。それでも、和樹には伝わった。
「罪悪感」
和樹は頭を軽く掻いてみせる。質問に対する不満をぶつけるかのように。
「もちろんありますよ。感じない訳無い。ただ……」
言葉を切る。そして、先に続けるべき言葉を頭の中で整理する。言い回しを厳選し、単語を並び替え、台詞を整える。そうして完成した言葉を、一語一句間違えず声にする。
「ただ、それよりも十分に大きくて大切な、守るべき信念が俺にはあるんです」
いつの間にか。こみ上げてくる熱い感情を吐き出すように言い終えて冷静になった和樹は、目の前にいる背を向けたままの輝夜を敵と見なしていたことに気づいた。同時に、和樹の語彙力ではとても言い表せない不安や胸騒ぎが、そこら中の空気を支配し、そのベクトルを和樹へと一斉に向けているのにも気がついた。
彼が、ゆっくりと体をこちらへ向けようとしている。和樹の心臓は自然と高鳴る。嫌な汗が噴き出てくる。悪寒。不安は恐怖となって、体の周りにねとついているようだ。
完全に体をこちらに向けた。真正面に。彼の右手が和樹の中心を指す。
光は十分に満ちている。視覚からの情報認識には事足りる。
その右手には。
黒い砲身。
拳銃。
***
和樹は、驚きの表情さえ忘れてしまい、動かす術も見あたらない顔の筋肉を硬直させている。両手の指先までも、作り物の、蝋人形のごとく固まったまま動かない。時間は止まり、永遠を物語る。
しかし和樹はすぐに自我を取り戻す。瞳に、光と焦点とが戻ってくる。そして、今のこの状況、その全てを了承したかのように、小さく何度も頷いた。
「……思ったより、驚いた様子を見せないな」
先ほどまでの輝夜の声のようで、別人のようでもある声。明らかなのは、輝夜が敵意を持ってして和樹に台詞を吐いていることだ。
「こうなるような気がした」
和樹はもう一度、脳の中の整理をつけるかのように頷く。
「このままうまくいって、逃げ切れる。そんな美味しい話ないもんな。どう考えたって」
「わかってるじゃないか」
輝夜は肩をすくめた。
和樹は次の展開の訪れを静かに待つ。しかし輝夜は言葉を続けようとも、引き金を引こうともしない。幕降りを待つ舞台役者のように、事の進展を他の誰かに委ねている。
徐々に本来の色を取り戻していく早朝の樹海は、未だに息苦しい空気を助長している。和樹は首の骨を鳴らして、いくらか肩の緊張をほぐそうとする。そして紛うことない目を持って、彼が手に握る凶器の存在を再認識した。
「俺を、殺す気なんだよな」
「それはお前次第だ」
沈黙。
「お前は、二人の暴行犯を殺した」
「あぁ」
「後悔しているか」
堪えきれないと言ったように、口元を緩ませる和樹。銃口は依然として和樹の左胸に向けられている。それでも和樹は怯まない。
「あんたは断罪者にでもなったつもりなのか」
風が吹く。樹林の牢獄の空気が更新されていく。息苦しさは徐々に薄まる。二人の表情……和樹だけでなく、輝夜も……はいくらか緊迫の色は見えなくなった。しかし、命を握る男と握られる男の、絶対的な不均衡の生じる構図、この状況は何ら変わりない。そのことは和樹も理解しているはずだった。
和樹は斜に構えた態度を取る。飛び道具に対して身構えているのではない、撃ちたきゃ撃てよと、なめてすかした態度を取っているように見える。
「俺は一度、全てを失った」
和樹は静かに語り出した。
「二十年かけて積み上げてきたものだ。……俺は、自分で言うのも何だけど、馬鹿ながら馬鹿なりに、真面目に地道な人生を送ってきたつもりだった。中学生の時は、不良まがいのこともしてた頃もあった。でも、勉強は人なりにしていて、実際テストの成績も平均点を下回ることはそうそう無かった。人並みに、将来のこと、夢を語り合ったりもした。二つ上の先輩と恋愛したこともあった。それは、誰にでも送れる、それでも凡人の俺には十二分にまっとうな人生だった」
一息置き、和樹は輝夜とちらりと目を合わせる。彼の頑なな表情は崩れていない。
「二年と、四十一日前。晴のち曇。風はそれほど強くなかったはずだ。月見団子も勝てないぐらいの満月がきれいだったけど、すぐに雲の影に消えちまっておぼろ月になってた」
和樹は腕組みをしながら、首を上げ、虚ろな視線で、そこに浮かんでいるのであろう一点を見つめる。まるでそこにある樹木がスクリーンとなって、二年前の記憶が映し出されるのを観るかのように。
「その日のことは何だって覚えている。覚えていないわけがない。忘れちゃいけない。俺が二人の人間を殺した日で、”俺が死んだ日”だ」
スクリーンに映し出された記憶を、和樹は綿密に拾い上げていく。
***
「バイト帰りの、午後十時半。帰りに、駅前のスーパーで明日の分の牛乳買ってきて、と母親から電話が来る。母親は俺の返答も聞かずに、用件だけを伝えてすぐに電話を切ってしまう。
……もうすぐ家に着こうかという距離まで歩いてきたのに。
俺は吐き口のない文句を漏らす。不満。不服。でも、そんな無駄な感情は、どこか意識の届かない場所へ、早いこと放ってしまう。
今時のスーパーは二十四時間営業で便利ね。母親の言葉が目に浮かぶようだった。スーパー内は、会社帰りのサラリーマンの姿の多さが特に目立った。昼間この場をにぎやかしてくれる主婦らの姿はあまり見あたらない。
スーパー内を一通り歩いて、俺はいつもの低温殺菌牛乳の他に、四個セットのアロエヨーグルト、クランキーチョコを二枚、夜更かし用にブラックミントガムも買っていく。それらをまとめて大きいサイズの袋に詰めて、カバンと別々にして持ち帰る。
帰り道は大通りではなく、線路沿いに近い裏道を選ぶ。暗い夜道は危ないとか、遠回りでも明るい大通り沿いを来なさいとか、若い女の子にかけるような、ありがちな忠告は気にかけなかった。男だし、危険はない。通り魔に狙われても、走って逃げ切れる。裏道を通ることで増える危険性は無きに等しい。そう、俺の中では結論が出ていた。
小さくうねる下り坂で、右手には並び連ねる一軒家、左手には高架線。マンションばかり建ち並ぶ景観に飽き飽きしていたのか、俺はこの小道を趣があるものとして気に入っていた。だから、人通りのないくらいこの帰り道を、いつも進んで選んでいた。その日も選んでいた。
何気ない日常しか存在しない閑静な道に、大きな転換が訪れたのは、その日が最初で最後だった。
誰かに、呼ばれた気がする。
どこから聞こえてきたのかわからない。俺はピタリと足を止めて、耳に神経を集中させる。だが、聞こえてくるのは空気の震える音だけだった。
空耳なのだろうと、俺は心の内で割り切ろうとする。そうして、もう一度、歩みを始めようとした時。
誰かの悲鳴が聞こえた。」
***
樹海に吹いていた朝風が止む。止んだと思ったら、不意打ちのように風が吹き込み、葉がざわざわと騒ぎ立てる。和樹は樹木が織りなす一通りの喧噪を、静かに聞いている。……くちびるを固く噛みしめながら。
十分な間を作り終えた後、和樹は話を続ける。
***
「聞き覚えのない、若い女性の声だった。その声は、空耳だ、では済まされないほどに現実味を持って訴えかけてきていた。
確実に誰かに助けを求めている悲鳴だった。もう、知らんぷりできる立場にはないと思った。カバンとビニール袋を握りしめたまま、俺は迷うことなく、駆け足で高架線へと曲がる道に入っていった。
ガード下の駐輪場にさしかかるところで、女の人のうめくような声が極めて近くから聞こえてきているのに気が付いた。俺は耳を澄ませ、声が呼ぶ方を全身全霊を込めて絞り込む。
電灯のじりじりと鳴る音や、季節に取り残された鈴虫の鳴き声がノイズとして入ってくるが、人の声だけに対象を当てる。脳に内蔵されたつまみを、受信周波数を合わせるように慎重に回す。高架線の上を大きな障害が通過する。俺は負けじと人の声だけに焦点を絞る。
……聞こえた。
女だけではない、男の声も混じっている。それも複数だ。駐輪場の端、バイク置き場だ。俺は声の呼ぶ方へ走り出す。
バイク置き場は、公道からは完全に死角になっている。人の気配はしても、駐車しているワゴン車が邪魔で、かなり接近するまで人影が視界内に収まることはない。
……俺はふと思う。最初に誰かに呼ばれるような声が聞こえたのが、帰り道である裏道の途中、ここから道のりで三百メートル以上は離れた場所だった。改めて考えてみる。
”女の人の声がそんなところまで聞こえるのかどうか”。
常識的に考えると、まず無理だ。たとえ女の人がオペラ歌手ほどの声量を持つ人だとしても、最大声量の悲鳴を上げる隙は、そう簡単に与えられないだろう。だとしたら、あれは本当に空耳だったのだろうか?
……いや、違う。俺は、導かれたんだ。
三つの人影を目前にして、俺は確信した。
状況把握をする。ワゴン車に寄りかかり突っ立っている短身の男が一人。そしてその奥に、口元を手ぬぐいで縛られ、仰向けに押し倒されている二十歳に満たないぐらいの女性と、その上にのしかかっている長髪の男。
”何が行われているのか”。それを知るだけならこれ以上の状況説明は全く不要だった。
一番近くにいる突っ立っていた男が俺に気付く。今この瞬間まで、俺が近づいてきているのに全く気が付かなかったらしく、ひゃあっ、と声をあげて大袈裟に驚いた。それがきっかけとなり、奥にいる長髪男が俺の存在に気づき、鋭くこちらを見た。
俺はしばらく立ちつくしたまま、この状況を噛みしめていた。女性の方に視線を向ける。口元を手ぬぐいで縛られ、両手を後ろ手にひもで縛り上げられ、両足は今まさに長髪の男に縛られそうなところだった。
彼女は訴えかける。助けて、助けて、と。
『なぁ、何見てんの?』と、長髪が俺にけんか腰で問う。俺は無言で返す。続けるように『お、おまえ……』と短身の方が言いかけるが、『てめぇは黙ってろ糞が』の一言で短身はさらに縮こまってしまう。長髪は立ち上がりながら、こう言う。『十秒数えない内に消えねぇと、お前から先殺すぞ』。
俺は今にでも駆け出そうとしていた。長髪男に殴りかかろうとしている。しかし、俺の足が、理性が、危険を察知した本能がそれを阻む。
”今ここで何が行われているのか”。俺にはそれが分かっている。人通りの皆無なガード下。助けは借りられない。それでも、誰かが”それ”を阻止しなければならない。だけれど、一歩を踏み出せない。ここまで来ておいて、俺は自分のみを案じ、ためらうのだった。
首を大きく縦横と振って、邪念を振り払う。覚悟を決める。コンクリートに縛(ばく)されていた右足を、ぬかるみから抜け出させる。決意が形になった瞬間だった。
『その人から離れろ』と俺は出来る限りの力強さを込めて言い放つ。ゆっくりと、長身の男に歩み寄る。長髪をにらみつける視線にありったけの憎悪を込める。長髪は動じない。動じないどころか、余裕を見せつけるかのごとく卑屈な微笑みを浮かべている。
女性のそばに寄った俺は、二人の男を無いものとして、慌てる造作を見せずに彼女のひもをほどきだした。
俺は安堵のため息をつく。彼女の今の様子を見ての判断だけど、”やられる”前だったのが不幸中の幸いだったようだ。
後方から『お、おい……』と、気の入っていないなよなよ声が聞こえるが、気にも留めずに手を動かす。長髪の邪魔も、特に入ってこなかった。
言葉を奪っていた手ぬぐいもほどき終え、『大丈夫?』と柄にもなくやさしく彼女に声をかける。やはりショックが大きかったようだ、俺が声掛けしても、あぁ、とかえぇ、とか単語にも満たない言葉しか返ってこなかった。
俺は彼女の腕を引っ張り上げるようにして、少々無理をして立ち上がらせる。手を握り、彼女の歩調を確かめ、うまく合わせるようにして歩き出す。俺ら二人は元の世界の出口にまでさしかかっていた。
出口は、すぐそこにまでさしかかっていた。
『待てよ』
長髪の一言に、彼女は過剰なほどに反応して、踏みとどまってしまった。手と手で繋がれていた俺も、引き止められる。
俺は足を止めて、振り返る。長髪は、見てるこっちが胸くそ悪くなりそうな笑みを浮かべながら、『このまま帰れるとでも思ってんのかぁ?』と、嘲笑を含んだ醜い声をかけてくる。
俺は深いため息をつく。彼女の顔をちょっとだけ見やった後、改めて長髪を正面に構えて、今にも逃げ出しそうな頼りない両足を固定して、台詞を引っ張り出そうとする。が、先に言葉を続けたのは長髪の男の方だった。
『くくく……』、『……何笑ってるんだよ』、俺らは意味のなさない応酬をする。『おまえよぉ……ペットとか飼ったことあるか?』。
想定外の問いに俺は思わず自分に指さして、長髪に俺に対して聞いているのかと言葉無しに聞き返した。『あたりめぇだろ。とちくるってんのか』。狂っているのはお前だろ、と熱くなった喉の奥でつぶやいた。
『まぁこの際どっちでもいい。ペットを飼うってのはな、飼いならすことや、身の回りの世話とか、飼う前にはあまり想像のつかねぇ面倒くせぇことであふれきっている。だが、てめぇで考える脳みそ持ち合わせていねぇから、鎖繋いでメシ喰わしときゃあ、死なねぇ限りいなくなんねぇ』。『ま、まぁ、人間だって、鎖繋いでおけば逃げやしな……ぐぁ!』。短身男の一言に、右ストレートが飛んだ。俺の隣の彼女が小さく『きゃっ!』と声を漏らしたのが聞こえた。
『次喋ったら十倍増しでぶちのめすぞ』。短身はひぃひぃ息を荒げながら、首を必死にぶんぶんと縦に振って許しを請うた。
『まぁ、気を取り直そうか』と言いながら、長髪は短身に一発けりをぶち込んだ後、何故か俺らに小さな笑み……今度は、特に含みのない……を投げた。
『さて、ここで問題だ。ペットとはいくらか勝手が違う人間を、拉致監禁などしないで”飼う”としたら、鎖の代わりとなるものは何だ』と、長髪は問う。
何を話しているんだ……。俺はそいつの台詞が言葉が別次元の言語に思えた。『何を……』。返すべく言葉が見つからない。長髪はあざけりの表情を崩さない。表情を崩さないまま、胸ポケットに手を伸ばす。
その時、俺は感づいてしまった。奴の言う、鎖の代わり……見えない鎖の正体を。
その時まで、確かに存在していた、光をたたえる絶望空間の出口が、ひどく大きな音を立てて崩れた。俺は愕然とした。
胸ポケットから、長髪は取り出した。
数枚の写真だった。
『これが、鎖の代わりだ』」
***
輝夜は、もはや銃口を向け続ける意味を失って、右腕をだらんと力無く垂らしていた。樹海も沈黙を守る。風がない。木々のどよめきもない。何もない。
樹海一帯が、和樹の憤怒を受け入れるかのように。
「彼女が、あいつらに”やられた”時の写真だった」
和樹は言う。その台詞には、川に落とされた小石が生む音を、水の底で聞くような……そんな深く悲しい響きがあった。
今も残る、心の中で静かに煮えたぎる憎悪や悔恨を押し込めようと、握りこぶしを作っている。和樹は自分を制御し、話を続ける。
***
「隣の彼女は枯れ果てたような声を上げながら、泣き崩れる。ワゴン車の脇にいる短身は、何か圧倒的な存在に脅えて、身を震わせている。長身は、その写真が印籠のように絶対的効果を持っているものとして、どこか誇らしげに目の前に掲げている。
俺は、そこに在る、まざまざと見せつけられている全ての存在を、拒むことなく受け入れている。ただ一つ、長身の男が持つ、数枚の写真を覗いては。
『近所にばらまくんでもいい。ネット使って流しちまうのもいい。多少のリスクを気にせずに、その手の業者に売れば、そこそこの金にはなるんだろうな。まぁ俺は犯罪者として捕まるのはだけは勘弁なんでな、”そんな危険”は犯さない。捕まらない範囲で欲求を満たす、それが俺の信条だな』。
俺は何も言わない。何も言えない。
『思えばよぉ、昔っから俺のやり方って、ぜんっぜん変わってねぇんだよな。さかのぼりさかのぼって、中二ん時。同じ学年、同じクラスの野郎に、外見からしてまんま変態がいてよー。つきあい悪いし、そいつのクラスの女を見る目が気持ち悪いもんだから、俺も入れたグループ数人で裏でハブっていじめてた。……先公の目が厳しかったからな、その頃は。奴らの目をかいくぐって、てことさ。んでだ、ある日、俺は見つけちまった。その陰険野郎が放課後の教室で女子の体操着入れをあさっているのを。教室のドアを開けたらそいつはすぐに俺に気がついた。当たり前だがお互い、そのはち合わせは予想外だったから、そいつ、すっげー慌てて手に持ってるもん隠して、でもすぐに手遅れだと気づいて、俺の所まで目を血走らせながら駆け寄ってきた。……あん時はそいつにぶっ殺されるんじゃねぇかって思ったけどな。そいつ、俺にこう言ったんだ。『この事はどうか黙っておいてください、お願いします』だとよ。俺はすぐにひらめいた。”何でも出来るな”、と。実際、カモを縛り上げる鎖があれば、何でも出来た。手始めに小遣い持ってこさせて、それで足んなくなったら万引きさせて、仲間グループに俺のしてること知れ渡った後は、他の奴らはそいつに女子の前でパンツ一丁になるように命じたり、女子更衣室に突撃してくるように……』。
『やめろ……もういい』うまく形に出来ない震えた声で、俺は続きを拒む。
『最後まで聞かねぇのか。まあいい。じゃあ、本題にでも入るか』と、長髪はおどけた態度で台詞を吐いた。本題とは何だ、と俺は聞き返す気力も失っていた。
うーん、とわざとらしい仕草を見せながら長髪は考え込む。その場をうろうろしながら、アイデアが降ってくるのを待っているようだった。
『おい、男。じゃあ、おまえがその女脱がせろ』。
何? 何? まず、耳を疑う。確かに、長髪はそう言った。こめかみの辺りが痛み出す。身体が熱い。苦しい。吐き出したい。
彼女に目を向ける。彼女は歯をがたがた鳴らせながら脅えていた。俺が、何をする? 彼女に? 俺が?
『聞こえただろう? どうだ、やらないならこの写真焼き増しでもしてそこら中のマンションのポストに投函しまくってもいいんだぞ?』と、長髪の男。
俺はただ呆然と立ちつくすだけで、頭の中は虹色絵の具を混ぜたみたくぐちゃぐちゃで、隣の女性はいやいやと首を振っている。
彼女に繋がれた鎖は、長髪の手の中に握られている。
この状況は何だ? 抜け出せない。どれだけ目をこすっても”最悪”の一言が視界をちらつく。
『なんだよ、早くしねぇか。どうせおまえ、頭ん中ではおいしい役回りだとかそんなやましいこと考えちゃってるんだろぉ?』、と長髪が嘲る。短身もつられるように嘲笑する。笑っている。二人で、笑っている。
二人は、笑っている。彼女は、悲しんでいる。
理性が決壊、抑えきれない感情が一気に流れ出た。
俺はわけのわからない、怒りの感情を声に上げる。気が付くと長髪に向かって右肩から突進していた。
身構えていない長髪の男は簡単に吹っ飛ぶ。コンクリートに倒れ込む。俺はその上に覆い被さるように襲いかかる。
顔面を全力で、右で殴る。左で殴る。右で殴る。左で殴る。血反吐が飛んだ。顔にアザが出来る。長髪は尋常とは思えない力で抵抗する。だけれど、大の男にのしかかられた状態で、気負いもなく渾身の力を込めて殴られては、長髪にも抵抗のしようがなかっただろう。
やがてラッシュは止まる。左胸に空虚が出来る。俺は変わり果てた長身の顔から目をそらす。
彼はもう、動かない。そう気付いた頃にはもう、とっくに事切れていた。
『ひ、人殺し……!』と、短身が震えた声でつぶやいた。俺は息を切らしながら、短身をにらみつける。殺意が込められていた、と俺は思う。
短身はジーンズのポケットに手を伸ばし、何かを取り出す。……バタフライナイフだ。俺はすぐに気付くが、もはや身じろぎなどしなかった。
『うわぁぁぁぁああ!!!』と奇声を上げながら、両手で構えたナイフを盾に、短身は前後を忘れて突進してきた」
***
樹海を包んでいた深い闇は、朝日によって影も残さず消えて無くなっていた。和樹は差し込む朝日を浴びるかのように太陽ののぞむ方を見上げている。
和樹はゆっくりと輝夜へと向き直り、完結していない話の先を口にする。
「その後の、細かいことは覚えていない。頭に……血が、煮えたぎる溶岩が上ってきていたから。自我が再び戻ってきた時には、もう二人の男は絶命していた。俺が無心に助け出そうとした女の人の姿は、そこには見あたらなかった。その結末を目の当たりにしていると、急に逃れようのない虚無感に襲われた。俺は、足から崩れてコンクリートにへたり込んだ。意識がもうろうとしてきていた。脇腹の辺りが、自分の身体と思えないほどに熱く感じているのに気が付いた。しかし、激痛でもがき苦しむ前に、俺は意識を失った」
和樹は左脇腹あたりを傷を確かめるように自分の手でなでる。その傷は事件の実在を物語る証でもあった。
「次に気が付いた時は、病院の中だった。個室には、刑事も来ていたし、母親も来ていた。俺は重要参考人として、いろいろと尋問された。俺は、彼女がその場でされていたこと……その事実だけを婉曲に語って証言した。後々になって、男らの手荷物……写真とかで俺の証言の真偽はすぐにばれたけど、暴行事件被害者の彼女をかばったものとして、嘘の証言をしたことは判決にはそれほど影響は及ぼさなかった。俺は退院後、懲役八年の実刑判決を言い渡された」
病院での、母親のいろんな気持ちの込められた、がんばってね、の一言がきつかったなぁ。と、和樹は振り返る。
その場を往復するようにうろうろしていた和樹。だが、突然何かに思い当たったかのようにぴたりと停止した。
「人を殺したことを、後悔してるか、だっけ」
和樹は輝夜に目をやる。彼はこくり、とうなずく。
「後悔なんて、刑務所生活では日課のようなものだ。自殺未遂したことだってある。医療刑務所にでも送られるかと自分でも思うほどに、俺は荒れていた。廃人と化した状態での生活が一ヶ月ほど続いた」
和樹はゆっくりと輝夜の手元の拳銃に視線をやる。
「ある日、暴行事件の被害者の女性が俺の元に面会に来た。彼女は面会室に入るやいなや、すぐに泣きだしてしまった。彼女はこれ以上がないぐらい俺に謝っていた。何回も、くり返しくり返し。何百回も謝った後、彼女はカーディガンの長袖をまくり、俺に手首の傷をそっと見せた。事件後、俺だけでなく彼女も自殺を図っていたんだ。彼女は袖を元に戻しながら、こう言った。
『この世に未練なんて無いから、生きて苦しむならいっそのこと死んでしまおうと考えてました。刃物を手首に当て、赤いラインを引こうとした時、貴方のことが頭の中に浮かびました。あの人が苦しんでいるのに、なぜ助けてもらった私だけ楽になろうとしているのだろう。そんなことを考えていたら、自殺は中途半端な傷跡だけ残して失敗してしまいました』
って。その時の俺は彼女に何も言葉を返せなかったから、返事もはさまずただ彼女の言葉を耳に通していた。繊細で綺麗な声だった。彼女は退出際に、俺に言った。
『私は、あなたが体を張って守ってくれた私の未来を、大切に、決して無駄にはせずに生きていきます。だから、あなたもどうか、一人の人間を救ったという誇りを持って生き続けてください。私のため、にも』
と言った」
和樹は輝夜に歩み寄っていく。
「俺は二人の人間を殺した。でも、一人の人間を救えた。それが正しいのかなんて分からない。選ぼうと思えば……”中途半端な正義心”さえ持ち合わせていなければ、殺しなんてしなくて済む別の選択肢だって見つけられたはずなんだ。迷いはある。後悔もしている。でも、俺は約束した」
二人は至近距離まで近づく。輝夜は反射的に拳銃を上げる。
「約束した。俺は死ねない」
電光石火の速さで輝夜から拳銃を奪い取る。絶対的な不均衡を司っていた拳銃を、和樹は自分のこめかみまで運ぶ。
「俺はまだ、死ねない」
引き金音が、樹海を占める。
不協和音のような沈黙が広がる。
時が止まったかのような錯覚を空間に滲ませる。
……やがて、何事もなく時は動き出す。
「……そんな気がしたよ」
和樹は、その意味を失った”空砲”を輝夜に投げ渡す。
***
二人は、さっき来た遊歩道を、時間軸をさかのぼるように戻っている。先の見えない暗闇の散策でしかなかった道は、鮮やかな自然の源に包まれた一本道へと姿を変えていた。
「常盤さん」
「何だ」
輝夜は拳銃を懐にしまいながら反応する。
「要は、ここにきたのは俺を試そうとしただけなんですか」
和樹は輝夜の後をついていく形で歩く。行きにはかなりの時間をかけた遊歩道だが、辺りが明るくなっただけで足の運ぶ速度はかなり変わってくる。
輝夜は振り返らずに答える。
「結果論で言えば、そうなるな」
「わからないな。結局の所あなたが何をしたかったのか。何故、俺を助けたのか」
「……」
「まぁ、聞いても教えてくれないんだろうけど」
和樹の探り入れにも、輝夜は黙りを決め込んでいた。和樹はしばらく、輝夜の沈黙に付きあうことにする。
そして、二人は遊歩道の出口に着く。
「この道を、道なりに進んでいけば、三十分もたたずにペンション風の小屋が建つ場所に出る。深緑に囲まれた、綺麗な場所だ。私の仲間が、そこで待っている。和樹をかくまってくれることになっている。小屋に着いた時は、私の名前を出すんだ。そうすれば向こうも分かってくれる」
「……常盤さん」
和樹が、申し訳なさそうに切り出す。
「実は俺、刑務所に戻ろうと思うんです」
言った本人である和樹の中では、それは予想範囲内のことだったが、輝夜は大きく表情を崩しておどろいてみせた。おそらく、二人が出会ってから一番の驚き顔だった。和樹は思う。
「なんというか、やっぱりこういうのって、卑怯だと思うんです。自分のしたこと……罪を、完全に清算してから……もちろん、人を殺したということは、一生背負わなければならない重い罪だから、簡単には消えない、永久に消えないものかもしれない。とにかく、俺は残りの懲役をしっかり終えてからでないと、母親にも、あの時の彼女にも合わせる顔がないような気がするんです」
「律儀な奴だ。何でお前みたいないい奴が、何故」
「いい奴、だなんて。いい奴でもなければ、悪い奴でもないです。中途半端なんですよ、俺は」
「”中途半端な正義心”、か」
そうです、と和樹は笑みを浮かべる。いつしか見せた、自嘲的な笑みにも見えた。
***
輝夜は和樹に聞かれて、警察署までの道のりを教える。それほど近くないし、歩いて行くには面倒だろうから車で乗せていってやると言うが、自分の足で出頭したいんです、これ以上迷惑は掛けられません、と断固として自分の足でカタをつけることにこだわった。
車道を確かな足取りで歩いていく和樹を、輝夜は温かく見守る。遠く、手ぶらで歩く和樹が振り返る。大きく、しかし控えめに手を振る。輝夜に向かって。輝夜も遠くの和樹に分かるように、右手を挙げる。まっすぐに。
二人が出会ったのは、この時が初めてで、この時が最後だった。
***
車は、国道0号線を走る。
何故、和樹を助けたのか、と彼は問う。
答えを探しているから、と彼は答える。
答えは見つかったのか、と彼は問う。
見つからなかった、と彼は答える。
人を死に至らしめた、永遠の罪悪感。大切な人を死に至らしめた張本人を消せたという、歪んだ悦び。仇を自分の手で裁けなかった、途絶えようのない後悔。
全ての感情は、完結しないまま混ざり、ほどきようがない塊となって、彼の心の底に沈んでいる。
彼の”汲み取り”は、まだ終わりを知らない。
〜終〜