大山ディスカッション 上
まてまて、落ち着けよ俺。とりあえず今度は自分が誰かから思い出そう。
服部敬吾、一浪の私立大学一年。茨城から上京してきてアパート一人住まい。彼女無し。金も無し。運も無し。
で、今日はバイト入ってない日なので夕方に帰ってこられた。今夜の夕食の食材は昨日買い込んで来てある。貧乏学生なもので、自炊しないと生活できないから必然的に料理がうまくなる。得意料理はチャーハン。卵を使うと米がぱらぱらになっておいしく出来上がるのだという裏技を伊藤家の食卓で見てから、ピーク時には毎晩チャーハンを夕食にして食べていた。
いやいや、そうじゃない。また脱線してしまった。今重要なのは彼女がいないこと……まぁ確かにそれも死活問題だけど……じゃなくて、俺が一人暮らしだという事実だ。大学の友人も連れ込んだことはない。
「やぁ、敬吾君。お帰り」と、全体的にくたびれているおっさん。
「……おじゃましてます」と、室内でもマフラー装着している高校生の少女。
「お帰りなさいませ。ご主人様」と、……メイド服。
見知らぬ顔が三つ。
俺の部屋に居座っているこいつらは誰なんだ一体、という問題。
常識の範囲内で考えをめぐらす俺にはそれを未だに解決できず、玄関入る→すいません部屋間違えました→玄関出るを三回繰り返した。これは四回目。
「そんなとこ突っ立ってないで、ささ、早くあがりなさいよ」
客と家主の立場が逆転しているという根本にさえ目を向けなければ、おっさんの行動は礼儀正しく適切なものだった。混乱中の俺も抱いた、疑問符がつく好印象。まぁどっちにしろ、この第一印象は驚くほどまっさらに消え去って(漂白剤なんて使ってないのに!)汚らしい印象で上書きさせることになるのだが。
「……」
聞きたいことは山ほどあったが、とりあえず無言で靴を脱ぎ、荷物をベッドの上に放った。
ちゃぶ台を囲んで、我が物顔でお茶をいただきながらくつろいでいる三人の顔を見渡す。
「とりあえず名前を聞こうか」
「貴様ぁ、何者だ!!」
どこか聞き覚えのある台詞を以て言葉の勢いそのままに立ち上がろうとするおっさんを、立ち上がる途中を真上からの鉄拳で仕留めた。
「とりあえずうるさい」
悶絶しているおっさんは無視して、俺はマイペースにお茶をすする、この中で一番まともそうな……日本語が通じそうな……少女にターゲットを移した。目線を同じ高さに持っていて、じっくり腰を据えて、聞く。
「名前」
「山田花子」
「殴るよ?」
「片山伊織」
「じゃあ、片山さん。何で君は……」と言いかけて俺は、服の裾を引っ張ってくるメイド服に気が付いた。
「わたしの名前には興味を示さないのですかご主人様」
いろんな意味でとんでもないタイミングで口をはさんできたそいつは、俺の家にいること以前に日本に存在すること自体が何かの間違いとしか考えられないメイド姿でいた。そのふわふわとした衣装にだまされそうになるが、目尻のしわの具合から言って、多分三十は過ぎている。
別の意味でもなく全ての意味でこいつが一番厄介だと本能が語りかけてくるので、なんとか精神的ダメージを受けずに受け流すことだけを考える。
「……あんたは後回し」
「あたしの名前は〜?」と、片山さんじゃなくて、おっさん。
「いらねぇ」
おっさんがしょんぼりするのを尻目に、俺はあらためて片山さんに向き直った。
「何で片山さんは人ん家勝手に入り込んでるのかな?」
「んーとねぇ」
まるでそこに記憶が浮いているかのように片山さんは斜め上を見つめている。現在進行形でゆっくりと時間を逆に辿っていているようである。
ちっ、ちっ、ちっ、ぽーん。
「……家の鍵持ってないのに鍵閉まってからここに来たの」
「そうなの。じゃあ片山さんはどうしてうちに来ようと思ったのかな?」
俺の今のいらだち具合は、子供嫌いな従業員が迷子の子供から必死に必要な情報を抜き出そうとがんばる時のいらいらに非常に似ている。
「えっとねぇ」
ちっ、ちっ、ちっ、ぽーん。
「私の家、二○一だから。お隣の二○二にかくまってもらおうと思って」
「お、お隣さんかよ」
お隣さんと言えば、秋冬の気候にも構わず年中アロハシャツと麦わら帽子を着けている、このあたりでも有名な”歩くお気楽”が思い浮かぶが、そのお隣さんに娘がいるとは今まで知らなかった。俺は、ますます近所付き合いが希薄になっていく日本社会の行く先を案じたりはしなかった。
「お父さん、今日は帰ってこないの? お母さんは?」
「多分、帰ってこない。お母さんは……別居中」
「あ、ごめんね。変なこと聞いちゃって」
「全くだな」
俺は笑顔の裏拳をおっさんの声がした方に飛ばした。
まぁ、鍵が無くて家には入れないのならやむなしか……と思いかけていた俺の思考に、一つ肝心な事が抜け落ちていることに気が付いた。俺が考えにふけっている隙にまたお茶をすすり始めている究極的にマイペースな片山さんに質問をぶつけた。
「もしかしてさ、俺がいない間に家勝手に開けて入ったのかな?」
「ううん。ピンポン押したらこのおじさんが開けてくれた」
ターゲット変更、と脳内管制室が告げた。
「おっさん、最後に何か言い残したいことはあるか」
「え、ちょっとちょっと、私にも話をさせてくださいよ」
へこへこする薄い頭に戦意を失った俺は、仕方なくおっさんの言い分を聞くことにした。
「ええと、わたくしですね、先月のあたまに長年勤めていた会社をリストラされてしまいまして、途方に暮れていたんです。失業保険に頼るだけじゃ、とてもじゃないですが生活できません。やけ酒とやけパチンコとやけ競馬でお金はすぐに尽きて、これはやばいなと感じ始めました。そこでですねわたくし、泥棒の方を始めようかと思いまして。とりあえず食べ物、あわよくば現金や通帳ですよね。
しかし、それはよくよく考えたら犯罪ではないかと。せっかくお金を手に入れても捕まってしまえば意味がありません。そこでわたくしひらめきました。泥棒がダメなら正々堂々お金下さいと頼み込めばいいのだと。だからわたくしは貧乏そうな人の家を狙って一軒一軒回りました。お金持ちの家に行かなかったのは、泥棒ではないかと警戒されるのを嫌ったためです。貧乏人の家なら、よもや自分ちに金を巻き上げる人間が来るとは思っていない人が住んでいる可能性が高いですからね。警戒されずに済みます。だからこの家、」
「皆さん紅茶入れましたので飲みませんか?」
「って、おおぅいぃ!! 人の話! 話! 途中!」
夕方にちゃぶ台を囲んで、畳の部屋でメイドの入れた紅茶をいただく。……悪くない悪くない。場にそぐわないなんてことはない。
「……」
しばらく、ティーカップセット(こんなモノ家にあったか?)が鳴らす音だけが秩序となって場を満たしていた。
「ねえ」
一人、お茶会の輪から外されたおっさん(無職)がこちらを恨めしそうに見てくる。
「ねえって」
おっさんが仲間にしてほしそうにこちらを見ている。
「ねえってば」
仲間にしてあげますか?
>いいえ
いいえ
「ねえムーミン」
「うるさい殺すぞスナフキン」
俺は愛のように美しい殺意のこもった目を向けてあげた。俺は狐目か? いや、違う。
「服部さん、さっきのわたしの話聞いてました?」
おっさんなりの真面目な顔を作ってはいたが、どちらにせよしゃくに障る顔だなと俺は思った。
「だから聞いた上でおっさんを無視決め込んでるのわかんねぇのかこの犯罪者予備軍」
「予備軍ですって!? いつから私は軍隊所属になったんですか?」
前言撤回。『真面目な態度』という、こいつの中にあるはずのないものをねだろうとしていた俺が全面的に悪かったようだ。
「……何か、もういいや。こいつの今後のことはどっかの病院に任せるわ」
「……それは病院が迷惑だよ」
片山さんも賛同した。
「保健所とかの方がよろしいのではないでしょうかご主人様?」
「あなたら……」
おっさんが人間的にかわいそうな顔をして見せた。もちろん、おっさん相手に同情の余地など無いのだが。
それはそうと、聞いておくべき事は聞いておいたので、これ以上一人の時間を潰されたくないと思いだした俺は早々に結論に至ることにした。
「まぁ冗談はここまでにして。おっさん。三秒以内にこの家から消えないと不法侵入罪で警察に突き出すからね」
「いやだなぁ、また冗談を……」
「……」
「本気……かい?」
「……1・……2」
「あ〜〜〜! 待ちなさい待ちなさい! それじゃあ後一つだけ話させてお願いだから!」
アパート全体に響いたであろう大声だった。俺とメイド服は反射的に鼓膜を守って耳を塞いだ。……が、片山さんだけはここでもマイペースで、大声にも動じずに、いつの間にかベッド脇の本棚から持ち出した俺の漫画本を読みふけっていた。
もう充分話しただろう。その意を目力に込めたはずなのに、視線の読み間違いかまたは単に無視されたのか知らないが、許可も得ずに最後の話を話し始めた。
「大体私がここに入ってこられた理由を考えてくださいよ服部さん。あなた、朝ちゃんと鍵掛けて出かけたんでしょう? でも帰ってきたら鍵は開いた状態で、現に私たち三人が部屋にいたのです。お嬢さんは私が入れたからいいとして、私は泥棒じゃあるまいし勝手に鍵こじ開けて入ったりはしていませんよ」
ツッコまない、俺はツッコまないぞ。こんな所でいちいちツッコミ入れてたら二回日が暮れるっての。
「何でそう”お話”にしたがるんだよ。もったいぶらずにとっとと言いたいこと言ってすっきりして気が楽になったところで警察に自首して刑務所入って二度と出てくるな」
「容赦ないですな……。それはそうと私が言いたいのは、私がここを訪れた時に、すでにこの素敵な衣装を着た方がいたということです」
全員の注目が素敵な衣装……メイド服に向けられる。おっさんの話を他人事のように聞きながら持参のお菓子を食べているところだった。
「私が部屋を見定めて、二○二号室のチャイムを鳴らしました。そしたらなんて事はない、あたかも家主のであるかのような居座りでこの女性が中から玄関を開け出迎えてくれたのです。そうですよね?」
もし、おっさんの話が本当なら……いや、自分の犯行計画を大セールするぐらいのおバカが器用に嘘をつけるはずがない。
「はい。確かにこの方はわたしがここに招き入れました」
ほら。これで裏付けも取れた。となると、このメイド服が片山さんもおっさんもいない時間帯の無人だった俺の家(鍵付き)にどうやって入り込んだか。それが一番の焦点となって、場の流れは聞き出さずにはいられない空気になっていた。
……さて、最悪の状況だ。
「ねぇ。……聞かないの?」
状況打破に全脳力を導入していた俺は、ささやくように話した片山さんがすぐそばにいたのに全く気づかなかった。
「な、何を?」と、受け答え不十分しどろもどろした返事をする。
「メイドさんに、何でここにいるのか、って。あたし達に聞いてメイドさんに聞かないのは不公平だと思う……」
いやぁ。追いつめられた。ははは。追いつめられると人間って、自分のことなのに不思議と他人事のように感じちゃうよね。
…………。
……。
……さて。
他人事ではない現実を認識して初めて、俺はメイド服を、目を逸らさずにまっすぐ見ることが出来ない事実に気づいた。
おっさんあたりに先に言われると、またぶん殴らなきゃいけなくなって部屋にほこりがたつのが嫌なので先回りして言っておくが、直視できないのは一目惚れしたからとかでなく、かわいいからとかでもなく、女性恐怖症だからとかでもない。あ、最後のはちょっと近いか。
「ほら、早く早く」
あれだ。時限爆弾のタイマーを、分の桁の数字強引に二ぐらい減らされた? みたいな。
もうすぐ俺の中で花火が打ち上がりそうです。
メイド服を目の端に捉えて、おそるおそるコミュニケーションをとってみる。手が震えてきた。
「あ、あのさ、君はさ……」
言葉が続かなくて、焦りはさらにつのる。爆弾のカウントダウンも早まる。
「顔色が悪いですよ、ご主人様。どうかなされました?」
そして、カウントゼロ。
「ぅわぁぁぁぁぁ!!!!」
”ご主人様”と言われた時点ですでに、俺は大きく後ろに飛んで絶叫していた。
「……どうしたの」
片山さんは、退いた勢いでそのまますがりついてきている俺に冷めた目を投げかけながら、動じなさすぎな声で聞いてきた。
「ご、ご、ぎょ、ご主人様とか、ま、真顔で、っつ、おかし、で、電波」
もう、口が回らない。平常心はとっくに保てなくなっていた。
「通訳すると、『この女ご主人様とか真顔で言うなんて絶対におかしい。電波入ってる』だそうです」
「す、すごいですねお嬢さん」
「読心術学んでますから。くちびるではなく、こころの方の」
「ははぁ、それはそれは」
俺がいないと、ツッコミをする人間がいなくなる。そんなしょうもない危機感と責任感で俺は少しばかり強引に精神を持ち直した。
荒げた呼吸を整えるのに一分。俺にとってメイドの存在は短距離走よりもハードだったということか。もちろん、肉体的な疲労ではなく精神的なものであるが。
「わたしのことを電波だなんて……ひどいですご主人様」
「電波かどうかは分かりません。しかし、申し上げにくいのですが、その服はさすがに……和室には似合わないのではないかと」
「あんた保護してぇ。天然記念物として保護してぇ」
「……でも、あんな大げさに恐がらなくても。電波がそんなに恐いの?」
俺とメイド服以外の二人も彼女を電波だと認定しちゃったわけで、そうなると孤立した電波が逆ギレして何かやらかしたりはしないかと不安になってくる。
「恐いよ」
それでもきっぱりと言い放つ。
電波は恐い。俺のトラウマだ。
「高校二年生の夏頃だよ。いつも通り、学校帰り。げた箱に、一通のラブレターが入っていたんだ。好きです何日にどこどこに来てください返事待ってますお願いします的な。細かい内容までは覚えてないし、読んでない。俺は確かにちょっとは喜んだけれど、送り主の書かれてない手紙で多少の不気味さを感じたし、その頃の俺には異性への興味がなかったってこともあるし。というか、その日コンサートの予定があったし。チケット代無駄にしてまで送り主に会いに行く気は起きなかったから、そのまますっぽかしたんだ。こちとら約束した訳じゃないし、いいだろうと思ってた。なあ、俺の判断何も間違っちゃあいないだろ?」
俺は一息ついて三人を順に見回した。おっさんが意外にもまじめに聞いてくれていたなのが印象に残った。……それとも単にラブレターと言う単語、コイバナに反応しただけかどうなのか。
「変化はその次の日にすぐ訪れた。毎度毎度の登校で、げた箱に手を掛ける。開け放たれた口から、封筒の体をした何かがいくつも、雪崩となって俺に降ってきた。俺はすぐにそれがラブレターの送り主の仕業だと気づいた。だけど、前日のすっぽかしのせいでこんな面倒に巻き込まれることまでは予想してなかったよ。手紙の内容、何だったと思う? 『何で来なかったの?』。これが紙一面にびっしり。……それも、五十通分も。
それでもその一件は序の口で、”いやがらせ”は段々とエスカレートしていった。呪いの言葉が乗せられたテープレコーダーまでげた箱に入れられてたんだぞ? 律儀に聞く俺も俺だけどよ。全部は聞いてないけど。まぁ、そんなこんなで、ラブレターの送り主はもはやストーカーと化してた。事の重大さにようやく気づいた俺は、柳さんっていうある女の先輩に相談を持ちかけたんだ。相手が女だろうから、そいつの心理が分かるのはやはり女性だろうってんで選んだ。先輩は快く相談に乗ってくれた。まず、丁寧に告白を断ること。それでも迫ってくるのなら、警察への相談も辞さない方がいい。先輩はそう言ってくれた。俺はその一言であまりにも気が楽になったもんで、その後も何度か相談に乗ってもらった。……今思うと、そのせいなんだよな。先輩を事件に巻き込んじゃったのは。いや、結果論なのは分かってるけどよ。先輩もそう言ってくれた。でも、先輩を巻き込んじゃったのは明らかに俺のせいだしな……」
「……何だか湿っぽくなってきたよ」
じめじめした思考に一喝、とばかりに片山さんが口をはさんできた。
「そ、そうか。悪ぃ」
「話長い! まいていこう! まいていこうか!」
「てめぇは早々に死ね」
「女心が分かってないよ。そんなんだからトラブルに巻き込まれたんだよ」
「……つか、言うねぇ片山さん」
片山さんが本邦初公開の笑みを作ってみせた。何だか凄く不器用な笑顔だ。と、そんなこと本人に向かって言える訳無いが。
「でもよぉ、女心が分かったところで電波心は分からないと思うぞ」
俺はおそるおそるあの時の記憶を掘り返していく。出来るもんなら全部忘れてやりたい。出来るなら。
続きを話す。
「先輩とはストーカー相談がてらに人生相談にも乗ってもらう仲になっていて、その日も俺は先輩に会って話し相手になってもらってた。そこら適当な喫茶店で話聞いてもらって、その後先輩の家におじゃまことになった。……別に、家に押し入ってどうとか、そんな思惑はお互いになかったからな。先に言っておくけど」
「純情ですな」
「……自分の気持ちに対して鈍感ね」
「てめぇら少しはおとなしく話聞いとけ」
俺はわざとらしく咳をして、仕切直す。
「ここで、確認事項。先輩は当時大学一年生で一人暮らし。マンション三階に住んでいた。マンションの玄関はオートロックで、住人以外は無断で立ち入れないようになっている。また、先輩は合い鍵を作って友人に持たせたりとかそういうこともしていなかった。なのに、だ。……閉めていたはずの玄関の鍵は開いていた。悪寒がした。嫌な予感を身体が感じていた。まさかな……と。悪い考えは振り切って、そのまま家に上がった。リビングで待ち受ける人影を見て、俺らは文字通り息を呑んだね」
「……いたのね」
「そう。ストーカーが。そいつはリビングの真ん中で、俺たちが来るのを待っていた永遠のライバルのように、背を向けて立っていた。俺はストーカーの姿形を見るのは初めてだというのに、すぐにこいつやー、と分かってしまった。……何というか、具現化しそうなほど禍々しいオーラを放っているように、俺には見えたんだよ。なんて口にしたらいいのか分からない気まずさの中、初めに口を開いたのは先輩だった。
『何をしてるの、あなた』って。先輩が誰、とは聞かなかったのは、先輩自身もそいつがストーカーだと感づいていたのかも知れないな。言葉に反応して、そいつは振り向いた。そいつは、笑ってた。ただ笑ってたんじゃない。最悪な出来事に出くわした場合、「笑うしかない」ってこと、あるだろ? あれと同じ……感情の狂った笑みだった。
『何をしてるの、って聞いてるの』
先輩は終始強気だった。頼もしかったなぁ、先輩。
……で、次だ。先輩の言葉を無視してか単に日本語が通じなかったのか、ストーカーがついに口を開いたんだ。
『おかえり、私のけーたん』
……こうやって思い出し思い出しあんたらに話しているだけでも鳥肌が立ってくるよ。ちなみに俺の下の名前は敬吾だけど、けーたんなんてあだ名で呼ばれたことなんか、このかた一度もなかった。つーか、何で俺の下の名前てめぇが知ってんのかと。……言えなかった。その時俺はすでに凍り付いて何も言えないし考えることもできなくなっていた。
『どうやってここに来たのって顔してるね。えへへ、けーたんに会うためならね、私、ど〜んな障害だって乗り越えられるんだから』
世間が共通して持っている”ストーカー”というおぼろげなイメージが、くっきりとした形を作って俺の前に出現した瞬間だった。いやまじでホント恐かった。身体がちがちに固まらせることしか、俺出来なかったもんよ。
それで、俺がビビって縮こまっている間に先輩とストーカーの言い合いが始まって。俺は口もはさまずただ呆然と。そのうち、激しい剣幕を見せる口論になっていって、危機感でようやく自我を取り戻した俺の目線の先に、鈍く光る果物ナイフがあった。
『け、けーたんは私のものなんだからぁ!』
おいおいおいおいまてまてまてまて。ストーカーは泣きたくなるほどに本気だ。てか、涙目になってる。泣きたいのはこっちだ、コンチクショー。
切っ先は先輩に向けられている。ストーカーはためらいなく腕を先輩に伸ばす。持ち前の反射神経が勝って、先輩は横に転がるように避けた。ナイフは空を切った。でも、先輩は態勢崩して倒れ込んでいて、ストーカーは二激目を狙い近づいてきている。ヤバイ。そう思った俺の身体は、ビビリ怖じ気つく前に勝手に反応していた。みぞおち目掛けて、タックル。油断しきった(たるんだ)ボディに、普通女相手に与えることなんてないような全力のダメージを喰らわした。比喩じゃなく、ストーカーは後ろに吹っ飛んで、頭打って気絶した。事が終わって、俺は体中に冷や汗が吹き出していることに気が付き、どっと疲れがまとまって押し寄せてきた。ホラー映画の三部作をノンストップで鑑賞した時並に疲れた。
それから後のことは、警察任せだ。当たり前だ、ストーカーに不法侵入、殺人未遂だってしてるんだ。示談とかそんな選択肢ねぇし、出来る相手でもない。
……それ以来、ストーカーには遭ってない。だけど、先輩とも会うことはなくなった。先輩も先輩で事件のことショックだったろうし、会うと嫌でも当時のこと思い出しちゃうからな」
……。
「で、何の話してたんだっけ」
自分で言うのも何だが、話長すぎて当初の目的を忘れてしまった。
周り見渡す。てかおまえら……。
テレビ見ている奴が一人。
てか二人。
つうか三人。
「俺の話聞けよっっっ!!!!」
近所が迷惑して吹き飛んでしまいそうなでかい声を出した。俺の秘蔵ののりせんべいを勝手に持ち出して食べていた三人は、さすがにびくついてこちらを向いた。
「……だって、話長い……」
「しかもつまらんです」
「相変わらず過去話は退屈なものですねご主人様」
ここまで責められるような事したか俺? てか相変わらずってなんだ相変わらずって。俺が受けるべきクレームじゃないだろう。
「あ〜、もうご主人様とかいいからそんなの! やめてマジで引くから電波」
「ひどいです、これまで全身全霊尽くしてきましたのに、電波だなんて」
「これまでって俺がここに戻ってきてからほんの一時間強関係と言える関係があったのかと」
「まだ気づかないのですか、私たちは前世からの付き合いを」
「おまえの前世はどうせ割り箸レベルだ」
「割り箸でも想いは通じる」
「妨害電波でも発して」
「なら、直接キスを」
「何故そこキス?」
「あーだ」
「こーだ」
無為なやりとり、数分。省略する。
俺らがあーだとこーだを言っている間、テレビを見ている二人。
「速報。連続放火魔が警察による連行中に逃亡ですって。物騒な世の中ですねえ」と、物騒予備軍。
「……おじさん、これって」
片山さんの目を引いたのは、犯人が逃亡した場所だった。
「んん、何と。『I区O町で脱走した犯人は未だ捕まっておらず、付近で潜伏中と見て、警察は犯人逮捕に全力を挙げている』と。大分近所ですね、これは。……え、わ、私じゃありませんよ! 逃亡犯だなんて、私は健全な……」
「おじさんが健全かはともかく……何か気に掛からない?」
「確かに、設定が四日前ぐらいにどこかで見」
「そうじゃなくて」
片山さんは”そいつ”気づかれないように目配せをする。おっさんは元々”そいつ”に対して疑念を抱いていたこともあってか、片山さんの思惑をすぐに察知したようだ。
「タイミング的に……ありえますね」
「……ありますよね」
確信に近い目を二人は、招かれざる客である”そいつ”……メイド服に向けていた。
「こいつはただの電波じゃないかもしれんね」
「……ちょっと待って」
静かな、しかし大地の底を揺るがすような力強さ、そしてタイミング。俺とメイド服の不毛なやりとりと遮るには十分すぎる一言だった。
言葉が止まったこの空気が、さっきまでのアホな話の展開がお呼びでないことを暗に伝えてきていた。
片山さんとおっさんの視線につられて、俺はメイド服を見やる。三人の視線を、臆することなく受けとるメイド服。
「メイドさん、あなた……」
〜続け〜